(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・34)
よく考えると可笑しな話だよね。セキレイの目に穴を開けるも開けないも政宗の手中にある。穴が開いている開いていないで本物、偽物を証拠立てる言い訳にはならない。
後日談があってね。この様子を家康から聞いた家康の家臣の井伊直政が、政宗の一揆勢加担は明か、騙された秀吉公は愚かですねと云ったら、家康は、太閤殿は承知していたよ。しかし、命令に応じて上洛した政宗の勇気と自署の檄文を偽文書と弁明した器量に免じてあえて見逃したのよ。政宗は大将の器だ、と戒めたとある」。
熊谷君が首を縦に頷いた。家康の話に納得したのか感心したのか、それとも先生の話が自分の知っていたことと違っていなかったから頷いたのか、分らない。
「しかし、現実は厳しかった。政宗を許したように見えるが秀吉はその数日後に厳しい決定を下している。第三次奥州仕置きだ。
秀吉は政宗の先祖伝来の居城である米沢城のあった置賜郡、伊達の苗字の由来の地・伊達郡、伊達氏累代の墳墓のあった信夫郡、安達郡などを没収とした。政宗は相当ショックを受けたと思う。金箔の磔柱のパフォーマンスの時にはまだ人をおちょくる心の余裕があったけど、それどころでは無くなった。
換わりに旧葛西・大崎領十二郡が与えられ、木村吉清父子は改易されて氏郷の配下とされた。裁判に負けた氏郷が伊達郡、信夫郡など政宗の旧領地を与えられて九十二万石の大大名になり、裁判に勝ったはずの政宗は七十万石から五十八万石に減封された。
しかもその土地の三、四十万石分は未だ一揆勢がのさばっている土地だ。それを鎮圧して初めて自分の領地となるのだからこの先イヤでも戦が待っていた。
政宗は没収された土地からの大移動を含めて労力も経済的出費もかなりの負担を強いられる事になった。蘆名氏を滅ぼして百五十万石とも百七十万石とも言われたときの奥州仕置き前から比べたら百万石をも失ったことになる。それが、こんな感じだね」。
先生はピンク色の事務用ファイルに綴じ込んである絵図を三人の前に広げた。天正18年奥州仕置き前頃の所領(別掲⒖)と、天正19年2月奥州再仕置き後頃の所領(別掲⒗)と有った。それも先生の手作りだった。
「ただ、秀吉はその一方で抜け目なく政宗を懐柔するための策も講じている。政宗を朝廷に奏請して左京太夫として侍従に任じ、秀吉の羽柴の名字を与えている。また京都に屋敷を与えた。
だまされた振りをした秀吉の方が二枚も三枚も上手だったね。秀吉はよく人たらしと言われるけど、なるほどねと思う対応だ」。
私には分らなかった。質問した。
「人たらしって何ですか」。
「うん。人を言葉巧みにだましたり、甘い言葉で懐柔するということだね。秀吉が怒ったところを見せずに怒って処罰し、相手が反抗するだろうと人参を目の前に差し出してなだめ、巧みに懐柔する。それがこの一連の取り扱いに良く現れている」。
先生の説明に、見ると及川君も熊谷君もなるほどねという顔をして頷いている。
思い直したように熊谷君が、その後、一揆の方はどうなったんですかと聞く。先生は、政宗が京都から米沢に戻ったのが五月も終わりに近く、その間、葛西・大崎領内は無政府状態だったという。むしろ一揆勢がまた勢力を盛り返し、体よく京都に約四ヶ月近くも足を止められた政宗はさすがに気が気では無かったろうという。
「貰った旧葛西領の新領地は不安定な状況に有るし、没収となった旧自領地に住む家臣達の評判も動向も気にしなくてはならなかった。伊達といえども、下克上の世の中、政宗を中心に一枚岩とは決してなっていなかった」。
そう言って次に続くお話にまた驚いた。
「一年前、政宗は小田原参陣を前にして実の母に毒殺されそうになった」。
「えっ。政宗がですか?」。
熊谷君が思わず聞き返した。
