(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・33)

 

                                                        十三

「ところで、三人はサイカチの木って、どんな木か知ってる?。私の小さい頃は遊び場が野や山だったから、ちょっと山の中に入るとよくサイカチの木を見たものだ。もっともそれがサイカチという名の木だなんて全然知らなかったけどね」。

   私は勿論、熊谷君も及川君も首を横に振った。それで熊谷君が先生のパソコンを開いて見ることになった。電源を入れ、教えて貰った先生のパスワードを入力してインターネットの検索枠にサイカチの木と入力した。出てきた画面の右側に絵柄(別掲⒔)が載っていた。それを見て及川君だ。

「なんだ、これか。裏山にあるよ」。

   私と熊谷君は見たことが無い。説明には日本固有種、全国何処でも山野や川原に自生する。豆科で幹は真っ直ぐ伸び高さが十五メートルにもなる。幹や枝に鋭い棘があり葉は複葉、五、六月頃に楕円形をした黄色い花を着け秋に長さ二十~三十センチの曲がりくねった豆果になる。鞘の中には一センチ程の数個の種子が出来るとある。

   先生はサイカチをもじって「葛西勝つ」なのだという。滅亡する話だけど、サイカチの木に託した葛西一族のお家再興の願い、四百年前の人々の願いとロマンを感じる。

「さて、及川君が聞いた秀吉の対応だね」。

   先生自身が、サイカチの絵に、また、その説明文にも満足したみたいだ。

「氏郷の第一報を受けると秀吉はすぐに豊臣秀次、徳川家康に出兵を命じた。だけど第二報ですぐまた出兵を取り消している。回りから見たら秀吉が氏郷に踊らされたことになる。しかし、秀吉自身は冷静に受け止めていて、むしろ政宗ならそういうことをやりかねないと思っていたらしい。政宗の評判が良くない。

   そのことを秀吉の近臣で仕えていた和久宗(わくそう)()という人物が、すぐ上洛した方が良いと政宗宛に二通の長文の書状を書いている。政宗がそれを目にしたのは天正十九年の正月十日頃。追って家康からも早く上洛した方が良いと書状が届いた。

   政宗は一揆勢を完全に鎮圧して戦果を手にしたかったらしく、二人の手紙を無視して再度一揆征伐に出かける準備をしていた。

ところが一月も末近く、今度は秀吉から(じか)に一揆討伐は後回しにして急ぎ上洛せよと指示する書状が届く。政宗は三十騎ばかりの供を連れて慌てて京へ向かった。二月四日に京都に入ったけど、何処で着替えたのか入京のときの姿は死に装束で、その先頭に金箔塗りの(はりつけ)用の柱を押し立てていて沿道の人々は度肝を抜かれたとある」。

「えーっ。凄いデモンストレーション!」。

「それで秀吉の心証が良くなるのかな?、想像するだけで街の人々の騒いでいるところが浮かんでくるけど・・・」。

   私と及川君の言葉にも熊谷君は清ましている。

「家康や前田利家(ほか)諸大名が詰める(じゅ)楽第(らくだい)の大広間で、秀吉を裁判長として政宗に対する審問が始まる。先に上洛していた氏郷が須田伯耆(ほうき)を従えて近くに控えている。

   勿論、秀吉が持込まれた須田伯耆の政宗文書を政宗に突きつけて、其方の書状に相違あるまいな、其方の花押に間違いなかろうと詰問する。

   政宗は動ずることなく(おもむ)ろに、確かに拙者の書状にも見えるが偽物だと言う。政宗の花押は数多くあるけど、よく知られているのはセキレイにも似た姿、形だ。セキレイはこの辺にもよく見られる尾長で小ぶりの鳥だ」。

   三人とも頷いた。

「見たことがあるかな?これだ。(別掲⒕)」。

 

今度はピンク色の事務用ファイルの中の一ページだった。

「俗に政宗のセキレイの花押と言われるものも使われる時と場合によっては姿、形に違いがある。自筆のものもあるけど、たいがいは右筆が代書する。右筆は今でいう書記官みたいなものだ」。

「政宗が偽物だと断言したのは、そのセキレイの目に当たる所に針で穴を明けてあるのが本物で、この須田伯耆が氏郷の所に持参した書状の花押には穴が開いていない。誰かが拙者を陥れる為に仕組んだ罠である。書状は偽物だ、と言うんだ。

   当然、秀吉は近臣に言いつけて、これまでに政宗が送ってきた書状を皆持って来いとなった。確かに以前に秀吉に届けられた書状のセキレイにはどれも目の所に針の穴が開いていた。秀吉はそれでもう審問を終わりにして政宗の言い分を認める。