(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・32)

 

   政宗が応じたんだから、やっぱり政宗の氏郷に対する謀略は黒だという説の研究者もいる。しかし私はそうは思わない。仮に氏郷を亡き者にしたら政宗はその後イヤでも天下の秀吉を相手に戦うことになる。二十五万もの大軍を小田原に集結させた秀吉の力をまざまざと見せつけられた政宗が、そんな無謀な事は出来ないし、しない。ただ政宗と氏郷の間で起請文が交わされていて、政宗が今後は氏郷に別心表裏は無いと『今後』と言っているところがミソだね。

   政宗が一揆討伐以前に氏郷宛てに出した書状に、一揆の様子を探るから氏郷殿は暫く出陣を控えて欲しいというのがある。政宗は前に氏郷の出陣を止める工作をしていた。一揆勢を鎮圧しても手柄を独り占めに出来ないからだ。葛西・大崎領を自分の物にしたい政宗は一揆を煽り、鎮圧の手柄を独り占めにしたいから色々画策した。

   ところがその目論見が崩れ、逆に下手すると裏で一揆を煽動していることがバレ、秀吉に逆心ととられる。一揆勢の中に伊達の旗指物を見つけられたら大変だ。その事があっての今後はだと私は思うね。須田伯耆の一揆煽動の首謀者は政宗だ、はその通りだ。しかし、氏郷の命を取る計画の話は政宗に怨みを抱いていたと伝わる須田の創作だろう。 

   晴信の立場からしたら、許せない政宗の一揆煽動の謀略だ。天正十八年十、十一月の一揆勃発で晴信のお家再興の望みは絶たれたと見るべきだろう。その時の領主は木村父子であり本来の責任は彼らだ。

   一揆騒乱の現状はさておき、晴信が浅野長政の連絡に迅速に対応して十一、二月に、あるいは年明けの天正十九年の正月早々に自ら上洛していたら、木村親子では頼りなく、政宗を牽制する為の武将の一人として葛西晴信のお家再興も現実にあり得る話だったかもしれない。秀吉の奥州安定化の一つの方法として歴史と違う選択枝が生まれていたのではないか。

   大名とは名ばかりで政宗に従属していたあの大崎義隆でさえ第一次奥州仕置きの後、石田三成の仲介と前田利家や家康の取りなしで以前の三分の一に減らされてはいるけど十二月頃に所領安堵の秀吉の朱印状を手にしているからね。もっともその朱印状は一年後の葛西・大崎一揆の鎮圧の後で取り消され、領地は政宗のものになる。

   晴信が小田原参陣うんぬん以前に京との繋がりを意識して行動していた事も段々と明らかになってきている。天正十七年九月、晴信が家臣に宛てた書状に京都衆出立に砂金と太刀を持たせるようにと気を配る晴信の心情が書かれている。それがこれだ」。

また青いバインダーの中の晴信文書から先生がページを開いた。そこには葛西晴信書状とあり、本吉(もとよし)大籠(おおかご)(ごう)、須藤伊豆殿宛てとなっている。(別掲⒓)。先生は、須藤伊豆は葛西氏の家老だという。私は、大籠って当時、磐井郡じゃ無かったの?、本吉郡だったんだと思いながら口にしない。先生が要所だけ読み下してくれた。

「貴所よりかねて頼んでいた砂金二百五十目まさに受け取った。そして尚書きの処、先年中、預けておいた太刀、この度、京都衆が出立するのでその前に鍛冶職人に見て貰うようにしたい。砂金の残りの分についてはまた話し合いたいとある。

   奥州仕置きで領地没収の対象になった大名として京にも不参の者とあったね。この書状を見ると、晴信は豊臣秀吉に臣下の礼を取るべく砂金も太刀も贈ったのに秀吉への取り次ぎが上手く出来ていなかった様な結果になっている。それもまた晴信には不運だった。その時、晴信の下に訪ねていた京都衆とは秀吉の家臣の誰と誰だったのか、秀吉との関係、密度がどのくらいの人物だったのか未だ分っていない」。

「猫ババですか。その京都衆という(やから)の?」。

   熊谷君の言葉に、許せないと及川君だ。私も猫ババだったら許せない。