(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・31)

 

 十一月十六日を期して一揆討伐の進撃を開始しようと二人は下草(しもくさ)城で戦略を確認し決めた。下草城は今の宮城県黒川郡にあった城で大崎地方に抜ける街道沿いにある。ところが、前日の十五日の夜、政宗の重臣の一人、須田伯耆(ほうき)が密かに氏郷を訪ねてきた。須田は葛西・大崎一揆の首謀者は政宗である。政宗は一揆どもと通じ明日の饗応の場で氏郷殿を暗殺する計画であると密告する。しかも証拠書類として、一揆を煽動する政宗の書状を持参してきた」。

 えっ?、て私が思ったら、及川君の声が大きかった。

「えーっ、何それ」

 驚きながら熊谷君を見た。熊谷君は頬を膨らませて首を少し横に振った。

「まあ驚くよね。氏郷は驚いたろうし、事は重大だ」。

 私も及川君も熊谷君も先生の次の言葉を待った。

「単なる噂ではなく密告者が政宗の重臣。しかも直接の密告。現物証拠もあるとなれば氏郷も慎重にならざるをえない。会談で話し合った計画通りに進撃して、途中後ろから政宗に攻められれば一揆勢との間で挟み撃ちに遭う。氏郷は政宗に連絡するまでもなく密告のあったその夜のうちに急遽、軍を進め、翌十六日、名生(みょう)(じょう)、今の宮城県古川市大崎にあった城だけど、そこにいた一揆勢を追い出して兵共々そこに籠ってしまう。

 氏郷と政宗の二人の以前の会談では政宗はその先の高清水城、今の宮城県栗原郡高清水町にあった城だ。そこまでの間に一揆勢が立て籠る城は無いと言っていたけど、実際には途中の名生城にもかなりの一揆勢がいた。氏郷は追い出しの合戦に及んだ。そのことも氏郷にとっては政宗への不信を増幅させるものだった。

 これ以降、氏郷は名生城に籠ってしまう。小さな城でも拠点が出来れば安心感はかなり違ってくる。後々政宗から何だかんだと連絡があっても氏郷は城を出ない。病気と称して佐沼城攻撃にも参加しなかった。確か十一月二十四、五日辺りの書状だったと思うが、氏郷は秀吉に政宗に異心ありと報告している。

 総大将の氏郷が籠城して動かないのだから、政宗が単独で葛西・大崎一揆を鎮圧しなければならなくなった。政宗は高清水城等大崎領内の一揆勢を鎮圧し、佐沼城の木村親子の救出に成功する」。

先生がテーブルに置いた葛西大崎・一揆関係図(別掲⒒」)と書かれた氏郷、政宗の進軍経路図に私達三人は目を見張った。先生の手作りだと言う。

「伊達家文書には政宗が戦わずして木村親子を助け出し、氏郷の軍営に身柄を渡したとある。なぜ戦わずしてなのか不思議だ。政宗の大崎領での一揆征伐のやり方に恐れをなした一揆勢が自ら佐沼城の包囲網を解いて退散したのか、それとも須田伯耆の密告通りに一揆勢の中に伊達の旗指物が翻っていて、煽動した者が止めーって言ったから一揆勢が手を引いたのか、ハッキリしない。

 また木村親子を助け出し、氏郷の軍営に身柄を渡したとあるが事実はどうもそうでは無い。京都へ帰る途中の白河で一揆勃発を聞いた浅野長政が政宗の下に急遽家臣の浅野(あさの)正勝(まさかつ)を派遣している。救出されたばかりの吉清がその浅野正勝を伴って間もなくじっと籠城したままの氏郷を訪ねている。氏郷は、名生城で吉清から佐沼城脱出の時の様子や政宗の働きぶり、浅野正勝から伊達軍の動きなどを聞いてようやく政宗に対する疑念が少しは解けたようだ」。

「先生、気になりますね。氏郷の報告を受け取った後の天下の秀吉の対応。そっちの方はどうなったんですか?」。

 及川君が口を開くと何でも面白くなる。私も勿論次を聞きたい。熊谷君はまた柔らかな顔をして清ましている。すでに先を知っているのかな?。

「まあ、そう急かすな」。

 穏やかにそう言う先生は笑みを見せている。

「政宗に異心有りの第一報を秀吉に報告した氏郷が、木村親子救出と浅野正勝の取りなしもあって僅かその二日後には先の報告は誤報でしたと秀吉に書状を送っている」。

「えっ」。

 今度は熊谷君が声を出した。

「朝令暮改と同じですか?。それを受け取ったら秀吉は氏郷に対する信頼も評価もナンダーということになりますね」。

「うん。実際はどうだったか分からないけど、報告を受けた者としてはおのれ政宗めとなり、次に氏郷よ何やってんだって事になるね。年が明けた天正十九年正月に秀吉が政宗を京に呼び出している。その後の話はちょっと先送りにして、続きだ。

木村吉清、浅野正勝の仲介で氏郷と政宗の二人は一応、和解したことになる。表向きは仲直りだけど氏郷の疑心がそれで解けた訳ではなかった。氏郷は、自分が名生城から会津の黒川城に帰還するまでの間、政宗に重臣伊達(だて)(しげ)(ざね)、叔父の国分(こくぶ)(なり)(しげ)を人質として差し出すことを要求した。