(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・30)
一休みして、先生のお話が続いた。
「政宗の第三の謀略は、まさに葛西晴信のお家再興の機会を奪う一揆の煽動だった。晴信はサイカチの木の枝を門柱や玄関に目印として飾り、葛西一族がここに居るという事を合図にしてお家再興の吉報を待てと家臣達と約束していた。
しかし、そこに一揆が起きたらどうだろう。晴信の意図するところでなく、煽動するところでなくても上方から見れば晴信の家臣達で有り旧領内の遺臣、百姓小者達の騒乱だ、一揆反乱に晴信が関わっているものと判断する。晴信はマイナスに評価されてもプラスになることは無い。それどころか秀吉から本領安堵を勝ち取るなどという考えはたちまち雲散霧消になる。
一揆勃発となったときに政宗が自分の頭に浮かんだのはまず一揆を拡大させること、煽動することだった。そして、その一揆鎮圧に自ら出動する。マッチポンプだ。自分で火をつけ、燃やし、自分で消し止める。そうすることで自分の手柄にする。
自領内を治めることの出来なかった木村親子の失政を浮き彫りにし、秀吉によって改易に追い込む。つまり木村親子を追い出す。そして秀吉から葛西大崎領の加増を自分に勝ち取る。政宗が自分の頭に描いたのはそういう自己の所領を拡大するための構図だった。同じ頃に蒲生氏郷が政宗に宛てた葛西晴信身上の事などという晴信のお家再興を計る相談の書状を、政宗が全く無視したのはそれでだ。
前に話した通り、政宗は元々葛西領を自分のものにしたくて胆沢の柏山や三の迫の富沢、気仙の浜田、大和田に食指を伸ばし、葛西家重臣葛西重俊にも内通していた。果たして、最初に胆沢郡の旧柏山領内から一揆が発生している。偶然なのかどうか不明だけど、きな臭い。一説には一揆は自然発生ではない。政宗が後ろで手を引いて胆沢の柏山氏と組んで意図的に引き起こしたという説もある。
一揆は十月初めの胆沢から始まり隣の江刺、水沢、そして磐井、気仙、本吉と広がっていった。一揆勃発の知らせを受けた木村吉清の息子清久は、対応策を図るため古川城から父・吉清の居る寺池城に出かけた。ところがその留守中の十月半ば、一揆勢が岩手沢城を奇襲して城兵等を殺し、その勢いで古川城にまで至り城を包囲してしまった。
岩手沢城も古川城も今の宮城県大崎市にあった城だ。ほぼ同じくして葛西・大崎領一円に一揆が勃発したと古文書にある。
清久は慌てて寺池城から帰ろうとするが、居城の古川城に帰れず途中にあった佐沼城に緊急避難した。佐沼城は寺池城と同じ今の登米市内で近距離にあるね。
それを聞いた吉清が救援に佐沼城に向かったのだけど、吉清までも佐沼城に閉じ込められる羽目になった。一揆勢はたちまち膨れあがり二重三重に佐沼城を包囲したと古文書にある。木村父子は佐沼城で身動き出来なくなってしまった。助けてくれと飛脚を飛ばしたんだろうね。政宗は米沢から、氏郷は会津からそれぞれに救出に向かった」。
熊谷君も及川君も、そして私も先生の話に引き込まれた。
「秀吉は氏郷を奥州安定化の要として配置していたから、もし一揆などが起きたら氏郷に伝えよ。氏郷は政宗を先鋒として出馬させよと指示していたと伝わっている。
政宗は十月末、氏郷は十一月初めに救出に向かい、二つの軍が近くまで進撃して二人が軍事会談する頃には十一月も半ばになっていた。そこで事件がおきる。