(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・28)

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「木村吉清は、奥州仕置きの頃、石高五千石、三百騎の武将に過ぎなかった。明智光秀の旧臣で後に秀吉に仕え、浅野長政と共に政宗と秀吉の間の連絡役になるほどの寵臣になっている。吉清が政宗に宛てて、小田原参陣の前に、早く上洛するよう促した書状が残されている。彼の折衝力の功と、息子清久(きよひさ)が政宗の居城だった会津黒川城の撤収に浅野正勝と共に担当した功を認められ一躍、葛西・大崎十二郡三、四十万石の大名に抜擢された。

 蒲生氏郷が黒川城に入城したのが八月末とあるから恐らくその頃に寺池の城に吉清、古川城に清久が入城したと思われる。政宗が蒲生氏郷に協力して大崎城や葛西領の収封を終えて米沢に戻ったのが天正十八年九月二十八日と記録されているから、木村親子の新領地統治は九月中に始まっている。葛西領内の各城主、館主にはお触れを以て居城等の明け渡しを通知したと古文書にある。

 お触れは御触書(おふれがき)の略で、藩主から一般民衆に出す公布文書・布告で文書通知もあれば立札(たてふだ)高札(こうさつ)もある。

 葛西・大崎領内に六、七十の山城があったと伝わっているけど、そこに館を構えている一族もいたわけで葛西領内の城と(やかた)は優に三百はあったろうと言われている。城主も館主も、そこに従属する一族郎党も突然出て行けと言われたけど行くところがない。今まで住んでいた土地、田畑を捨てて出て行けばたちまち食べるものに困る状況になるのは目に見えている。ましてや時期は、これから収穫期、冬に向かう季節だった。

 吉清は一躍大名になったのは良いが今までが小禄に過ぎなかったから、この広い葛西・大崎領を治める人材が居ない。絶対数が足りなかった。中間、小者を俄仕立てに侍に取り立てたとか、急遽、上方で人材を募集してその身分や素行を吟味しないまま来るに任せて採用し、金堀り、馬追の(たぐ)いや人非人の無頼漢の者までを近従の侍、あるいは足軽、小人に召し抱えたとある。

 その結果どうなったかというと、年貢取り立てに横暴であり、侍の作法もわきまえず旧葛西・大崎の侍だった者の家に押し込み強盗、果ては妻女を犯し娘を奪い、百姓の子女を連れ去る。商家に行っては脅して絹布や雑貨を奪うなど乱暴狼藉の限りで筆舌に尽くし難しとある。葛西真記録や奥州葛西記など葛西一族にまつわる書物、戦記物語に書かれているだけで無く、伊達政宗卿伝記資料や伊達秘鑑など伊達家にかかる書物(かきもの)等にも記録されている。いかに酷い状況だったか想像がつく。

 木村親子は領内に着任した。ところが一ヶ月経つかたたないかの十月初めには早くも領内で一揆が発生している。初めに葛西領の胆沢郡(いさわぐん)柏山(かしやま)で起こり、気仙郡、磐井郡に伝播し、秀吉に潰された大名の大崎、和賀・稗貫の遺臣達が一斉に蜂起するまでに拡大した。一揆発生の根拠に、脇百姓とか下人という隷属する農民を支配する村落の特権階級だった地侍、この地侍が太閤検地によってその特権を失ったことを第一に上げる研究者もいる。しかし、私は、旧の城主も館主も兵農分離していない郎党、地侍も家屋敷(いえやしき)を失い浪人化して路頭に迷った事が一番、また新規統治者一派の乱暴狼藉に我慢ならなかった、この二つが一揆発生の原因だったと考えている。

 着任一ヶ月あるなしの未だ人材不足で統治体制が整わないままの木村吉清が、太閤検地をすぐに強行したとは思えない。強行すれば当然反発が生じ大混乱に陥る。吉清はそれを抑えるだけの体制も無く強行するほど愚かだったのだろうか。

 秀吉が、全国平定の為に検地の意図を武士や農民によく申し聞かせろ。反抗する者あらば、城主は城に追い込んでナデ斬りにしろ。百姓であれば一村のもの全滅してもよいから皆殺しにしろ、と並々ならぬ決意を示したのは事実だろう。

 しかし、秀吉は、かつて九州征伐で功を上げた佐々(さっさ)(なり)(まさ)に肥後、今の熊本県だね、一国を与え、その際に性急な改革は旧領主や地侍等の反発を呼ぶから焦らず三年内に太閤検地をやれば良いとまで言っている。私は実質的な検地実行以前に一揆が発生したと見ている。もっとも検地によって、隠れて所持していた田畑を摘発される、賦課が重くなるなどの内容が分っていずれ検地反対の様相も一揆が長引く理由に加わっていったことは確かだろう。

 晴信が大谷荘十二郷に引き連れて行けたのは身内等の限られた数と僅かな家臣でしかない。それぞれの旧の城主、館主、地侍その家族、一族郎党は、今までの土地を離れがたくその場の近在に流浪することになった。城主、館主だった者の一部が今まで庇護していた神社やお寺、商家に一時的に身を寄せたらしいが、その先の展望が無い。それより身分の低かった者は身を寄せられる親類を頼ったとしても限界があった。

 収穫期を迎えた秋の実りを前に頭を垂れた稲穂に手を出すことも出来ない。季節は日ごとに雨露を凌ぐのに益々厳しい冬の状況だ。食べるものが心細くなる上に寒さが襲ってくる。そこに新参者の管理で乱暴狼藉が加わっては一揆が起こるのが当たり前だ。ここを見てごらん」。

 先生は青いバインダーの中のインデックスにある伊達秘鑑を開いて大崎葛西一揆蜂起之事(別掲9)と書かれた漢字とカタカナ混じりの文面の末尾を指さした。

「大崎葛西ノ諸浪人並二町人百姓等。(ことごと)ク新主木村父子ヲ遺恨二思ヒ。後難ヲ不顧(かえりみず)。当然ノ忿怒二忍ヒカタク。葛西東山ノ農人等一揆ヲ企テ馳集リ。長坂藤澤辺二居住シタル上方ノ侍共ヲ取囲ミ。残リナク殺害ス。」

コピー紙から顔を上げると私達三人は顔を見合った。この藤沢の町でも一揆があったんだ。