(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・27)
奥州仕置きの後の盛岡葛西系図に晴信は黒川郡大谷荘、今の宮城県黒川郡に十二村を給せられるとある。戦記物語にあるような華々しい抵抗戦が有ったら秀吉からそのような処置を受けることはあり得ない。また政宗の重臣伊達成実、彼の日記といわれる成実記に・・葛西晴信は自領地召し上げられ大谷に居住し、云々・・と書かれていて生存説は疑いない。
また晴信自身が、翌年、天正十九年正月廿日付けで、前沢城主、臣下の石川丹州宛てに送った手紙が発見されている。その内容は後で触れるけど、文書の末尾には晴信の書状を裏付ける印判、花押の中で尤も信用のある香炉印が使われている。
第二に、戦死したと言われる深谷和渕方面の陣の大将だった千葉左馬助胤元、登米西郡城主も生きていた。彼は一年後の葛西・大崎一揆で亡くなったことが明らかになる。戦記物語では逃走したとされているもう一人の大将、千葉十郎五郎胤永、桃生女川城主も生きていた。軍を率いていた二人が戦場を離れれば外の者はどうなる。早々に戦意喪失で大きな戦にはならない。
第三は、この仕置き軍との戦いで伝えられる戦死者の数が不明なことだ。歴史書や戦記物語には通常戦死者の数や戦況が書かれるはずなのにそれがない。参陣した事は書かれていても名だたる武将の誰が戦死したとは書かれていない。不思議なことだよ。調べると、参陣した人達の家系図の中に誰々が深谷にて八月何日に戦死と記録されている。そこから分ったのは小競り合いの戦況が深谷和渕の辺りで八月十一日から十四日頃まで有ったらしいことだ。戦死者はその期間に限られていて数は少ない。また森原山で氏郷軍と戦いが有ったはずなのに戦死者数が見当たらない。
第四に秀吉が八月十四日には会津を発っている事に着目しなければならないだろう。抵抗もなく無血占領された大崎義隆の方はともかく、三十二万石に匹敵する葛西晴信の抵抗戦の状況を把握し、その上で奥州仕置きを裁可して上洛の途についたものと思う。和渕戦も神取山戦も佐沼城戦も大戦になっていたら秀吉が晴信に黒川郡十二村を当てるなど起こりえない。この四つが大きな戦に無らなかったという私の根拠だ。
さて、伊達政宗が小田原で会津、岩瀬、安曇三郡を没収されたことや南部信直、津軽為信の本領安堵等を第一次奥州仕置きとすれば、会津の興徳寺での処置は第二次奥州仕置きということになる」。
領地を没収された者はと言いながら、先生は青いバインダーの中の「仕置き」とインデックスのついたページを開いた。没収された者の項に
大崎義隆、大崎五郡。 葛西晴信、葛西七郡
石川昭充、石川郡。 白川義親、白河郡
田村宗顕、田村郡。 和賀信親、和賀郡
稗貫輝家、稗貫郡。 武藤義勝、庄内三郡
新たに所領を加増されたり、転封によって移ってきた者、
蒲生氏郷、会津・岩瀬・安曇・石川・白河郡
木村吉清・清久親子、大崎五郡・葛西七郡
南部信直、和賀・稗貫郡
とある。領地の位置は奥州仕置き前後の所領図で分る。
「先生、後で葛西領を治めることになった木村親子ですか、どうなるんですか。伊達政宗の前にこの町周辺を治めた人物に木村吉清が居たなんて聞いたこともなかった、初めて聞きます」。
私が言うと及川君が続いた。
「俺達、先生に奥州仕置きの話を聞いて、それかネットで調べて葛西晴信関連項目で初めて合戦の陣立てや木村吉清とか、葛西・大崎一揆の話を知りました。先程の陣立ての中に及川、千葉、熊谷がどっかの城主であんなに出てくるなんて正直、知って驚きました。それだけに木村吉清と旧葛西領にいた武将、家臣達のその後がどうなったのか、先生が資料集めしたものは勿論、戦記物語に何をどう書かれているのか凄く気になります」。
「私も同じです」。
間を置かずに熊谷君も言う。
「そうだよね、同姓の好はさておいても、四百年前に郷土の中で実際にあった事の歴史の一ページだからね、関心が沸くよね。それにこの木村親子関連の事を話さないと、私は政宗の第三、第四の謀略の事も話せないんだ。続けるね」。