(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・24)

 

「さてその後の奥州仕置きの流れだけど、天正十八年八月の十日頃(九日)に秀吉は会津入りした。その地の(こう)徳寺(とくじ)で処置を発効している。領地没収になった大名の中に葛西晴信葛西七郡、隣国の大崎義隆大崎五郡とある。岩手県では外に稗貫(ひえぬき)輝家(てるいえ)で稗貫郡、和賀(わが)(のぶ)(ちか)で和賀郡が没収され、この二郡はいずれ南部領になる。

   処置の発効と言ったけど、それがどういう形で当時の各大名等に知らされたのか、晴信に何月何日に通知されたのか、政宗文書も浅野長政の浅野家文書も見たりして調べたけど今のところ私は分らない。

   ただ、文禄二年一五九三年九月三日に盛岡南部藩に仕官した晴信の三男正信が書いたと伝わる葛西盛衰記や、江戸初期に書かれたと伝わる歴史戦記物の葛西真記録等からは天正十八年七月下旬に、京へも不参の者とあるから秀吉に臣下の礼を取っていない者、小田原に参陣しなかった者、近年私戦によりとあるから惣無事令をベースにして言っていると思うが、私戦により奪い取った知行、領地だね。それらをことごとく召し上げるとお触れを出したとある。

   浅野長政家の文書(浅野文書)に残されている天正十八年八月十二日付け秀吉の検地施行に関する朱印状では、「山の奥、海は()(かい)の続きまで・・」検地を行なうとあり、また言うことを聞かない不届き者があれば一人も残さずナデ切りにしろ、と秀吉は強い姿勢を示している。

   仕置きの内容が明らかになると晴信は勿論、その領内の城主、館主達が騒然となったのは想像がつく。葛西動乱記や葛西真記録によると晴信は七月末に寺池城に居た。まずは陣立てし一戦してかなわぬ時は腹を切る、と家臣達と評定したとある。

   晴信文書の方を見ても、七月二十九日付け大籠(おおかご)須藤(すどう)伊豆(いずの)(かみ)に宛てた文書には東山大原(おおはら)飛騨(ひだの)(かみ)及び千葉甲斐(かいの)(かみ)以下東山勢千五百人余が桃生郡(ものうぐん)深谷(ふかや)に既に打ち出たと書いてある。その同じ文書の中には、当方もいよいよもって神妙なりとか、何があっても政宗の叔父に当たる国分(こくぶ)(もり)(しげ)に砂金が確実に渡るようにしろとか書かれている。

   おそらくこの時点で覚悟は決めたものの、親交のあった国分盛重を介し政宗を通じてでも秀吉と何らかの連絡を取りたい、本領安堵を勝ち取りたいという晴信の思いがあったんだろうね。須藤伊豆守は砂金を持って盛重のいる利府表(りふおもて)、今の仙台市に隣接の宮城郡(みやぎぐん)利府町(りふちょう)まで出かけたけど、盛重以下が松島の高城町(たかぎまち)に出張して不在だった。

   そこで須藤伊豆に利府町(りふちょう)に留まっている家臣寺崎民部に砂金を渡せ、寺崎から何があっても盛重に確実に砂金を渡すようにしろ。お前は戻って従軍しろ、の文書になっている。その後、盛重とどうなったのかは不明だ。

   さてこの先だけどね。葛西晴信と仕置き軍とがどうなったのか、晴信は戦ったのか、あっさり降参したのか。その動向にも、またその先の行く末についてもまだまだ歴史的研究課題がたっぷりと残されていることが分る。

   まずは江戸時代になって早くに書かれたという葛西真記録を中心に葛西盛衰記や葛西動乱記、奥州葛西記などの戦記物語をみながら私がまとめたものから話そう。葛西真記録等に依ると、八月に入って豊臣秀次を総大将とする上方軍が侵攻してくる。その街道筋を想定して晴信は自軍を大きく三つに分けて配陣したとある。それが此だ、纏めてある。当の秀吉自身は八月十四日に会津を発って帰途に付いている」。

   先程の青いバインダーの中のページだった。葛西軍と上方軍・対陣想像位置図(天正十八年八月)とある。(別掲8)これも先生の手作りだと言う。位置関係が分る。(仙台領の戦国誌、紫桃正隆著、宝文堂参照)        。