(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・20)

 

「葛西晴信は、表向きは富沢や浜田、江刺柏山が相手でも、その背後で操る強大化した伊達軍に恐怖を感じていた。先程の晴信の三月二十八日付けの三田刑部小輔に宛てた書状にあるとおり、晴信は、小田原にある中、諸事計りがたく、の心境だった。政宗の遠交近攻の動向に幻惑されたが為に小田原参陣の出立が出来なかった。それが伊達政宗による、さっきも言った第一の謀略だ」。

区切りが良いと思ったのか熊谷君が質問した。

「先生、政宗が晴信に援軍を頼んだときに骨肉の筋目と言っているのはどういうことですか」。

「一言で言えば葛西家と伊達家の縁組関係だね。政宗より遡ること五代前の伊達(だて)成宗(しげむね)、四代前の尚宗(ひさむね)、三代前の稙宗(たねむね)の頃に葛西家と伊達家の間にいくつか養子縁組、婚姻の成立が見られる。例えば、伊達家十三代伊達尚宗の三男義晴。彼は石巻城主だった葛西(かさい)(もり)(のぶ)の養子に入っている。そういう長い間の血の繋がりを言っている。

   なお葛西守信は将軍足利義稙(あしかがよしたね)の一字を賜わり(たね)(きよ)と改めているが早世している。また養子に入った義晴は葛西家の重臣達と上手くいかなかったらしく伊達家に戻っている。そのことから葛西氏の歴代当主の捉え方に混乱が生じている。仙台葛西系図は稙清を歴代当主の中に入れ、盛岡葛西系図は当主に入れていない。葛西氏の本城と言われる寺池城と石巻城の城主で葛西氏の当主争い、宗家争いがあったことが関係している」。

                八

   質問した熊谷君が手帳ではなかった、持参のノートにしきりに手を動かしている。及川君は生徒手帳だ。顔には失敗した、控えるものを持ってこなかったと書いてある。葛西一族の没落を聞かせて欲しいと先生に頼んだ本人だ。

「ちょっと話がズレルけど、葛西晴信の時代と言うことで大籠の製鉄とキリシタンについて話させてね」。

   一呼吸おいて、先生が少し微笑みを見せながら言った。

「君らも知っているとおり、及川君の家のある大籠地区近辺が、当時の葛西氏の鉄の生産地だ。キリシタンの伝播もその大籠が中心だけどまず鉄のことについて話すと、晴信は(すき)(くわ)(かま)(なた)など農林業用の鉄製品はもとより刀、鉄砲の生産拠点を領内の大籠(おおかご)()(ごめ)登米(とよま)地域等に所有していた。

   永禄元年一五五八年だ。千葉土佐という浪人が備中岡山から製鉄技術を持つ布留(ふる)大八郎、小八郎の兄弟を招いて大籠の(せん)(まつ)地区に住まわせ製鉄を広めたと古書にある。晴信が二十七歳で家督を継ぐ永禄三年一五六〇年より二年前だ。

   土佐の妻は長坂太郎の娘ともある。長坂太郎は葛西家重臣で奥州千葉一族の宗家に当たる今の一関市の長坂東山、さっき出てきた唐梅の館主が代々受け継いできた通称だ。古書の通りだとすれば彼女は千葉一族の宗家の娘と言うことになる。そうすると千葉土佐はただの浪人ではない。

   葛西晴信の前の代、晴信の兄の(ちか)(のぶ)あるいは晴信その人から息がかかった千葉土佐がこの地域に製鉄技術を誘致したと考えられる。特に備中に行ってくる往復の路銀、交通費だね。布留兄弟を招く支度金。この地に来た後の彼らの家屋の確保に掛かる費用や当座の生活資金。何より烔屋(どうや)を開き鉄生産の窯を作る為の資金を考えると、浪人の土佐一人の誘致にかかる功績とはとても考えにくい。

    最初に烔屋を開いたのは砂鉄の採取しやすい女川(おながわ)とか橋浦(はしうら)、今の石巻市(おっ)波川(ぱがわ)北岸と古文書に伝えられ、登米郡(とよまぐん)(おい)河原(のがら)本吉郡(もとよしぐん)()(ごめ)や磐井郡大籠等に炯屋(どうや)の場所が広がっている。

   かつての大籠地区の炯屋だったという家に残る伝馬状には慶長三年だから一五九八年。伊達政宗の岩出山城用に鉄十六百貫、今様に換算して六千キロ、六トンだね。大阪城に軍用の鉄、鉄砲用として二十四百貫、九千キロ、九トンの鉄を送ったと記録されている。藤沢町史等にも当時の烔屋八人衆と呼ばれる生産者と生産高などの記録がある。葛西晴信や伊達政宗等との関係からこの地域の製鉄産業の事跡を探ることも、まだ残されている歴史的研究課題の一つだ。

   藤沢町周辺の地域へのキリシタン伝来は鉄とともに有り、鉄生産の炯屋に働く人々を中心に普及していったと伝えられている。君達も藤沢町文化振興協会の発行するパンフレットや小冊子で知ってるね?」。