(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・18)

 

「この度秀吉公、北条(ほうじょう)(うじ)(なお)征伐のため相州、今の神奈川県だね。相州に発向仕り出陣して、諸国の大将も日々に小田原へ駆けつけている。我々も近日(まか)り上る参陣する覚悟にあるけど、先年、浜田逆意の(みぎり)、逆意だから謀反ということだ。その時の同心の者共かねがね富沢日向守に内通之ありは、内通しているという情報が有った。小田原にある中諸事計りがたくとは小田原に行っている間に何が起こるか分からない、相廻り候えばとは、ここではそう思うとその対応に手間取り、延び延びてだ。小田原の首尾如何かと候え床しき候とは、小田原のことが気になるということだ。留守中の儀その方にひとえに頼み候。小田原方のこと首尾良く下向なれば、参陣してその成果が出れば、帰って来てからその忠義を賞めて桃生郡一宇、一宇は全域だね。その方に与えるという起請文だ。日本国中の神様に誓って約束すると言うことだね」。

   先生はその他にも晴信が小田原に出立の意思のあることを裏付ける文書が残されていると語った。私のメモが正しければ、手帳には、晴信から東磐井郡(ひがしいわいぐん)大籠(おおかご)在住の葛西家重臣・須藤(すどう)伊豆(いず)宛、出立用又は秀吉への献上品・・武器、具足を早く用意せよ。東山長坂(から)梅館(うめだて)の城代、鈴木(すずき)下総(しもうさの)(かみ)宛て、小田原までの路銀、急ぎ砂金を一貫目届けろ、だ。

 「一方で晴信は四月十七日に長坂唐梅館に重臣達を集めた。その場で小田原参陣を決めている。長坂は一関駅から大船渡線で五つ目の(げい)鼻渓(びけい)駅から約二キロ辺り。(から)梅館(うめかん)は今の一関市唐梅館総合運動公園の頂上に有った。決定した日が四月十七日で有ることは、家臣に宛てた晴信の書状から分る」。

   先生の指摘した書状を見ると天正十八年五月十四日付けで小野寺若狭殿宛とある。

もう一つには、去月十七日東山長坂において談合及承候事 大和田宮内(くない)小輔(しょうゆう)変心 甚以寄快也(はなはだもってきっかいなり)今後浜田刑部も覚束(おぼつか)なく之状 家老主馬介以相分候(しゅうめのすをもってあいわかりそうろう)・・とある。

   先生は、この二つの書状から晴信に小田原参陣の意思があったことが分かると同時に、初めて出立できなかった状況の一端が分ったと言う。

   私達も先生の読み下しと書状の字面から富沢と浜田が結託してまた内乱を起こすのではないかという予兆と、参陣を決めたのに大和田宮内(くない)が奇怪な行動を取る、浜田刑部も信用できない、非常事態が発生していたんだなって想像できた。晴信が出立しようとした矢先に再度の内乱が起こりそうな不穏な状況になっている。

「この頃、富沢も浜田も既に所領の大半を葛西晴信に没収されていた。富沢や浜田に、また浜田と隣村同士だった大和田宮内に自分達だけで乱を起こすほどの力は無かった。それなのに晴信が小田原に出かけようにも出かけられない状況を誰が作り出したのか、演出したのか、実は彼等の後ろで伊達政宗が葛西領内の騒乱を扇動していた。晴信は彼らの後ろに控える政宗を見据えて動きが取れなかった。葛西晴信の小田原参陣を阻止する、それが政宗の謀略の第一だった」。

   胸がドキドキしてきた。伊達政宗の謀略が出てきて熊谷君も及川君も真剣な顔だ。黙って先生を見ている。その次に何があるのか語られるのか、顔が少し緊張しているようにも見える。先生の話が続いた。

 「天正十八年頃の伊達政宗は二十二、三歳。当時の政宗は、奥州全体を傘下に治め、いずれ天下を取るという野望を抱いていた。政宗は惣無事令を一時考慮したものの天正十七年に入って再び騒乱を起こした。その時に政宗は内訌(ないこう)を多用している。

   内訌とは他国の領内での主君と家臣の争い、あるいは主家の相続争い等につけ込んで外から手を伸ばし騒動を余計に煽り、騒動の一方を支援する形で武力介入してその地域での影響力を強める。あるいは直接傘下に収めていくやり方だ。

   内訌は戦国大名の常套手段だ。政宗は葛西領にその手を使って侵攻を画策していた。それが富沢氏や浜田氏あるいは江刺の柏山氏への触手だ。「えんこうきんこう」という言葉がある。漢字に置き換えるとすぐ分るよ。こう書く」。