(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・17)

 

「家臣達を抑えていた葛西晴信は惣無事令の重要性も天下の世情の流れも知っていた。その晴信が何故(なぜ)小田原に参陣しなかったのか参陣出来なかったのか。そこに伊達政宗の陰謀、謀略があった」。

 伊達政宗の謀略って凄い話。葛西晴信という武将がこの町周辺を支配していたという歴史を聞いているだけでも私には驚きなのに、葛西一族の没落に伊達政宗の謀略が関係していたなんて、もっと驚いた。先生の話が続いた。

「伊達家の文書の中に秀吉からの惣無事令の書状が残されている。政宗の腹心の部下で戦略家の片倉(かたくら)小十郎(こじゅうろう)宛に出されているが、それは外でもない伊達政宗宛を意味する。

 十二月三日付けで、年号、年表示が無いために書状の発行について学者間に天正十四年説、十五年説、十六年説とある。しかし、私はさっき言ったように天正十六年に晴信が浜田の陣も藤沢の陣も調停に結びつけ解決し、また、政宗が佐竹・蘆名連合軍との戦いに講話を結び、長年紛争の続いていた最上氏とも講話を結んでいる事から考えて十五年説だ。

 そのことはともかく、政宗が一旦収めた矛を天正十七年に再び振り回す様になった事が問題だ。黒川城、今の福島県会津若松城だ。政宗は一年前に結んだばかりの講話を反故(ほご)にしてその黒川城にあった(あし)名義(なよし)(ひろ)を磐梯山の麓、(すり)上原(あげはら)の戦いで破り、会津、大沼、河沼、耶麻(やま)の四郡と安曇郡(あづみぐん)の一部、越後の蒲原郡(かんばらぐん)の一部、下野(しもつけ)塩谷郡(しおやぐん)の一部、今で言うと福島県南西部から東に長野県の安曇野(あずみの)、大町市周辺、西に新潟、三条、新発田市(しばたし)などの新潟県北部、それに栃木県北部に当たる塩谷、高根町辺りまで膨大な土地を手にした。豊臣秀吉の私戦禁止、領土の争奪禁止にあからさまに反する行動だった。

 一方、北に向いては二派に分かれて内乱の続く大崎家の重臣、氏家弾正義継から要請があったとはいえ、政宗は再び大崎攻めをするぞと大崎義隆を脅し前年に和議を結んだばかりの最上義光(よしあき)も巻き込んで騒乱となっている。結果的に政宗と大崎、最上との間で和議を結んでいるが、天正十七年四月(十六日付け)の残されている文書では政宗は、大崎義隆に氏家一派の保護と最上家との絶縁を約束させ、『大崎家は今後、伊達家の下使として忠勤に励むこと』と大崎氏を完全に服属させている。奥州仕置きを迎える頃には大崎義隆は事実上、伊達政宗の配下になっていた。

 葛西晴信と伊達政宗の間はどうか。政宗の目が次ぎに向けられたのが葛西領だった。秀吉の小田原参陣の諸大名への大号令は天正十八年三月一日付けだ。一説には伊達政宗を通してその情報を晴信は知ったと言うものも有るが、決してそのようなことはない。 

 どのような流れでその情報が伝えられたか未だ明らかではないが、伊達政宗の息の及ばない南部や九戸、大浦の奥陸奥の各武将も知っていることから推察して政宗を通じなくても晴信も知るところだ。

 晴信の小田原参陣の意思は、近年発見された葛西文書の一つで明らかになっている。三月二十八日付けで晴信が胆沢郡(いざわぐん)前沢城主で柏山氏の宿老、三田(みた)刑部(ぎょうぶ)小輔(しょうゆう)に宛てた手紙で、その文面がこれだ」。

 先生は先ほどの青いバインダーをまた手にして葛西文書とインデックスの付いた中の一ページを開き、私達に見えるようにテーブルの上に置いた。

 今度秀吉公為北條氏直征討 相州へ就被発向 諸国之大将日々ニ小田原へ走参候条 我々モ近日罷上覚悟二ハ候得共 先年浜田逆意之砌同心之者共 兼々富沢日向守二内通有之候間 在小田原中諸事難斗ト相廻候へ者 小田原之首尾如何候 床敷候条 留守中之義其方偏頼事候 小田原方首尾能於下向ニ者 為其忠賞桃生之郡一宇可宛行 若於相違二ハ梵天大釈日本国中大小之神祇 可蒙御罰者也

仍如件

 天正十八年三月廿八日  晴信(香炉印)

 三田刑部小輔殿

(葛西左京太夫晴信文書、西田耕三編、耕風社を参照)

 漢文の素養の無い私には何が何だか分らないが漢字から凡そ推測のつくところもある。先生が読み下してくれた。