(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・15)
「家臣間の紛争はあった。隣国との紛争もあった。繰り返された浜田広綱の乱や謀反の疑いの強い富沢直綱の乱も度々あった。しかし、その都度、葛西晴信は有るときは仲裁を調停し、有るときは自ら出陣して武力で解決している。葛西晴信に紛争を解決するだけの武力と家臣の信頼を得る魅力が無ければ資料にあるような和睦や勝利という結果にはならなかっただろう。
三の迫、今の宮城県栗原市にあった岩ヶ崎城主・富沢日向守直綱は、葛西晴信の家臣で有りながら隣国の大崎義隆やその重臣の氏家弾正吉継と関係を持ち、伊達正宗とも深いつながりを持って謀反を起こした。その富沢の乱は度々あり、天正十四年の三度目の戦いの後、晴信は富沢の領地の大半を没収して騒動を収めている。
また、繰り返された今の宮城県本吉郡の千葉大膳太夫重継と岩手県陸前高田市にあった米ヶ崎城主・浜田安房守広綱との争いだった浜田の乱も、最期は葛西晴信自身が出陣し、家臣に命じて和睦に導いている。この二つの乱の鎮圧に晴信が動員した武将、城主それをあえてそこの資料に拾って書き出しておいたのは、晴信の当時の権勢が窺えるからだ。葛西方に多くの城主、館主、柵主が見える。一方の富沢方や浜田方に味方が少ないのは敗者の記録は古文書には詳しく書かれないからだ」。
先生の一通りの説明だった。資料を手にした及川君が皆の笑いを誘った。
「謀反を起こした浜田の乱の所に蛇ケ崎城主及川掃部頭ってある。この及川姓が俺のご先祖様かも。謀反ねー。うーん。おまけに同じ及川姓同士が敵味方に割れているのが残念」。
それから及川君が質問した。
「家臣間の紛争がこんなに多いと葛西晴信も大変だったろうな。何か争いは止めろという、普段から領主としての命令書みたいなものはなかったんすか(のでしょうか)」。
先生の説明は分かりやすかった。
「戦国大名が領内を治めていくのに分国法と云われるものがある。大名領主が領地内の秩序維持のために家臣達に示した行動基準、今で言えば法律だ。
朝廷や幕府に代わり強い権威を持って定め、地域性やお家柄を反映しながら実行力のあるものを施行している。武力紛争の禁止やその解決の基準、窃盗強盗等の禁止とその刑事罰的内容を含むものもあれば、遺産の相続、商取引における紛争の解決方法を定めているものもある。それで有名なのは武田信玄の五十七条の条文と家訓からなる『甲州法度之次第』や、伊達稙宗の百七十条からなる『塵芥集』だ。
その分国法のようなものが葛西家に有ったのか無かったのか、不明だ。鎌倉時代から続く歴史を持つ葛西氏に分国法が有ったとしても可笑しくないが、この四枚の資料から推測するとあったとしてもその効力が発揮されていたとは言えない。
世は戦国時代、下克上の時代だ。この時代、紛争を解決にするためには家臣の協力が絶対的に必要だった。家臣の信頼を得る魅力と武力が無ければ領国の維持も拡大も出来ない。分国法の有無はともかく、葛西晴信がある時は家臣に命じて和睦を調停し、ある時は自ら出陣して武力で解決していた。その事実が大事だ。信頼を得る魅力と武力が晴信にはあった。だからこそ、大崎義隆とその後ろにいる最上義光と戦った遠田の陣の時のように先祖が失った領地を回復し、天正十八年当時、葛西晴信は三十二万石にもなっていた。その事実に彼の実力を見るべきだね」。