(サイカチ物語・第一章・ルーツ・37)
九
「やっと終わったわね。お茶、淹れ直して良いかしら、もう三時過ぎたわよ、あなた。千葉さん、紅茶にしましょう」。
二人がキッチンに立った。妻の指示で千葉さんがラックにテイカップ、ソーサーと匙のセットをテーブルに持ってきた。妻は、輪切りにしたレモンを乗せた小皿と紅茶器具の定番ハリオールをテーブルの上に置くと、もう一度キッチンに行きヤカンを持ってきた。人数分の茶葉を入れ、鍋敷きに一旦置いたヤカンから熱湯を注いだ。
間もなく筒状の耐熱ガラスの中を茶葉が浮き上がり湯が透明感のある濃い茶色に鮮やかに変わっていく。五人の目がその様を追った。しばらくたつと、シャフトを操作して浮いた茶葉をゆっくり押し下げる。
「千葉さん、開けて」。
妻が声をかけると、千葉さんが真鍮製のぽっちを持って蓋を開けた。たちまち柑橘系の甘い香りが周りに広がった。
「いい匂いだな」。
及川君の言葉に、千葉さんだ。
「じゃなくて香り、いい香り」
と修正する。皆に小さな笑い声が起きた。熊谷君はニコニコしている。
妻の指示で五つのテイカップに注ぐのも千葉さんだ。その間に、今日は何も用意してなかったからこれで我慢してねといいながら妻はクッキーをのせた中皿を持ってきた。クッキーは縦が四、五センチ、横が六、七センチの長方形の形をしていたが、また人数で割りきれない九枚だ。近頃腹の出てきた私を意識しての妻の行動だろう。皆がカップを口にしたところで、美味しい、千葉さんの歓声が出た。
皆が一通り満足したような顔になると、それを待っていたかのように熊谷君の質問だった。
「先生から見て吾妻鏡で一番印象に残るのは何ですか?」。
妻がすかさずだ。
「あらあら、主人の話から離れないわね」。
私に目で止めなさいと合図した。妻のその仕草に私はお構いなしだ。
「どの場面と言うよりも日記形式にその時の歴史が記録記述されていること、実際の記録資料がなければあれだけの事は書けない。そこにまず驚く。一部に虚構ではないか、事実と異なるとか、曲筆だという学者や専門家の指摘箇所もあるが、それはそれで構わない。約八十年に渡るあれだけの歴史が記録記述されている物が外にないからね。
吾妻鏡の何処が他の公家や僧侶の日記、随筆等で立証されるか、立証されるところを大事にして行けばいいと思う。二つ目は、やはり人間の愚かさ、悲しさが全編を通じて書かれていることだ。編纂者はそのことをさほど意識していないで事実をまとめていった、編纂したのかもしれないけど、頼朝を始め、鎌倉幕府にあった御家人や北條一族の栄枯盛衰が記録されている。そこには人間の欲、権力欲、名誉欲、所有欲などがたっぷり出ている。また猜疑心や宗教心など、人間が持つ心の弱さ故に起こる事件、事実が書かれている。そこに魅力を感じてるね」。
熊谷君への回答でひとまず終わりにしようとしたのだが、及川君が二代将軍頼家、三代将軍実朝の暗殺は事実ですかと聞く。
「間違い無く暗殺だね。他の文献にも多く書かれている。鎌倉幕府は実朝の後の四代将軍から皇族、摂関家から人材を迎えて将軍にしている。そこにも武家社会創建を果たしながら天皇家を切れないという考えが現れている。君達が習ったように北條家の執権制度になる。ところがその中でも、幕府内の主導権争いから将軍の追放が四代将軍から八代将軍まで繰り返し行われている」。
「そんなあ。へーッ」。
少し及川君のリアクションが大きい。私は調子に乗ったわけではないが、そればかりではないよ、鎌倉幕府創設に貢献のあった梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、三浦義村など有力御家人達が次々と謀反の疑いで潰されていく。頼朝亡き後、権力を得んがために讒訴、猜疑心、疑心暗鬼、嫉妬、後継者争いが渦巻く。そこに、北條政子以外にも女性が自分の娘や息子、兄弟親族をもって権力争いに絡んでくる。吾妻鏡の後半は、有力御家人を排除した北條家が、今度は北條家の親類縁者の中で執権職や家督を巡って相争う様相を映している。その一方で、誰が寺を作ったとか、仏像を寄進したとか、出家して成仏を願ったとか、陰陽師に占いをさせたとか、人の持つ心の弱さ、何かにすがりたい、頼りたいとする人間の所作が書かれている。魅力を感じると言ったのはそういうことだ、と一気に語った。