(サイカチ物語・第一章・ルーツ・36)

 

   北条時政という人は畠山重忠事件以外に将軍頼家の母である若狭局(わかさのつぼね)の父、外戚で有力御家人だった比企(ひき)能員(よしかず)、例の奥州合戦の北陸道進軍の大将を務めた彼を重成をして自邸に呼び出し、謀殺している。また将軍後継者問題でも実朝を殺して自分の夫人、後妻の牧の方の娘婿(平賀(ひらが)(とも)(まさ))を将軍にしようと画策した。その事件が事前に露見して娘政子により時政は失脚させられる訳だけど、歴史書を見ると、兎に角、時政は権謀術数の人だったといえる。舅時政の稲毛重成を使った頼朝暗殺説が消えない訳だ」。

「うーん」。

  及川君が何か言いたそうに唸ったが、発言する言葉が出なかった。

「あと一つ、北條泰時が亡くなった年、(じん)()三年、一二四二年だね、吾妻鏡に記録記述が無いのは。これも北條一族に取って隠しておきたいこと、記録記述から削除したい事は何だったのかという観点から見ると、不思議なんだよね。北條(ほうじょう)(やす)(とき)はさっきの時政とは全く逆で、鎌倉幕府の御家人達にも京の公家達にも評判が良い。

   泰時は飢饉の時には庶民に米を支給し、また誰もが診てもらえる診療所を特設し、質素倹約と良策を自ら実践した人物だ。その時代を生きた僧侶、無住(むじゅう)(どう)(ぎょう)(しゃ)石集(せきしゅう)という説話集に泰時と一般庶民との間での心に残る様々な逸話を書き残している。それほど泰時は人徳のある人だった。泰時は頼朝、政子の専制政治体制から集団指導体制、つまり合議制の政治体制に転換させ、荘園、地頭制度の土地を巡る紛争解決のための裁判の基準となる御成敗式目を作った。御成敗式目は日本史の授業で習ったと思う」。

「はい、出ました」。

   千葉さんが応えた。

「こうなると、一二四二年に何があったのか歴史的事実を探るしかない。この年に四条(しじょう)天皇(てんのう)が崩御し()嵯峨(さが)天皇(てんのう)が即位している。京の公家(くげ)貴族(きぞく)達は(じゅん)(とく)天皇(てんのう)の皇子(忠成(ただしげ)(おう))を新たな天皇として擁立しようとした。しかし、順徳天皇は後鳥羽上皇と一緒に公家政権の復活を計ろうと鎌倉幕府討伐の兵を起した承久(しょうきゅう)の乱(一二二一年)の首謀者の一人だった。泰時は、その皇子の即位に強行に反対した。皇子を即位させても、すぐ退位させるぞと脅したとする公家の日記(経光卿記抄(つねみつきょうきしょう))すら残されている。吾妻鏡の原文にその後継問題にかかる記録記述があったんじゃないかと思う。

   泰時がなぜ後嵯峨天皇を擁立したかというと、後嵯峨天皇は土御門天皇の子((くに)仁王(ひとおう))で実は北條家の縁戚関係でもあった。泰時の異母妹(竹殿)が土御門(つちみかど)(さだ)(みち)という公家の側室になっていて、その定通の所で後嵯峨天皇は養育されていた。父の土御門天皇が承久の乱の首謀者ではないけど連座して責任を問われ土佐に流されていたので母方の大叔父だった定通のところで育てられていたんだ。

   こうしてみると、吾妻鏡に記録記述が無い年というのは寿永二年の木曽義仲にかかる後白河法皇との関係や、建久七、八、九年の大姫、三幡の入内問題といい、仁治三年の天皇後継者問題といい、特に天皇家と関係のあった年ということになる。吾妻鏡編纂時に武家社会が確立されてはいたものの、まだまだ神の末裔である天皇を絶対的な権威とする当時の常識から後世に残したくなかった北條一族の動向、京、朝廷とのやりとりが吾妻鏡の原文にあったのではないか。それが削除された、と私は思う」。

「千葉さん、こんな所だ」。

熊谷君がノートを取りに行けなかった原因を自分が作ったような気がして、私は千葉さんに声をかけた。

「ありがとう御座います。ホント、歴史がこんなに面白いと思ったことありませんでした」。