(サイカチ物語・第一章・ルーツ・35)
「それから、建久七、八、九年だね、吾妻鏡で抜けているのは。北條家から見て何か隠したい、記録記述から削除したいという観点から見るべきだろうね。
いろいろ追求・研究している学者さんはいる。その当時の歴史上の記録されている主要な事実、事件から推測するしか無いね。この建久七、八、九年頃は頼朝政権としては比較的安定期だった。その中での歴史的な事実・事件というと、「建久七年の政変」と呼ばれる摂政関白の交代、頼朝と親しかった九条兼実、二階で日記玉葉の話をしたけど、その書いた当人の失脚がある。
それから建久八年には、さっき話した大姫と、頼朝の実の妹を妻にして朝廷に幅広い人脈を持っていた一条能保が亡くなっている。頼朝は、京に居た一条能保を使って九条兼実の政敵だった土御門通親や丹後局にまで派手な贈り物をして大姫を入内させようと画策した。頼朝と親しくしていた九条兼実失脚の要因は、この一連の動向に関係していたみたいだ。
頼朝は大姫が亡くなると次女の三幡、通称乙姫を入内させようとした。しかし、朝廷側の反発が強かった。頼朝から話を持込まれた後鳥羽天皇が翌年の建久九年正月早々に土御門天皇を擁立して上皇に成り院政を敷いている。つまり、譲位する事によって入内を阻止した。
この三年間に共通する物として、どうも頼朝は、大姫と三幡を入内させよう、天皇家と繋がりを持とうと運動して果たせなかったことが際立っている。娘の入内は頼朝の父親としての思いとも言えるけど、自ら天皇の外戚になるという野望だった。
その事実や行動は後世から見るとある意味、恥だね。一つには天皇の外戚となった平清盛のようになれなかった、朝廷に対する影響力を持てなかったという評価になる。またもう一つ、逆に朝廷何するものぞで武家社会創設者と言われる頼朝らしからぬ行動だった。頼朝自身が天皇崇拝、貴族の末裔としての思いを捨てきれなかったとも言える。それらに関した事がこの三年間の主要な事実として吾妻鏡の原文に記録記述されていたのかも知れない。北條家としてはそれを削除したかったのではないか、と思うね。
その一方で、頼朝の死は謎、暗殺ではないか。だからこの三年間の記録記述が削除されているという説がある。しかし、それは二代将軍頼家、三代将軍実朝が暗殺されているので頼朝も暗殺された、暗殺ありきという前提に立って考えられている説ではないかと私は思う。
建久九年の暮れも押し迫った十二月二十七日、頼朝は、御家人の稲毛重成が亡き妻の追善供養のためにと相模川に架けた大橋の落成式に臨席した。なんと、その帰りの道中に乗っていた馬が暴れ、頼朝は落馬した。打ち所が悪かったらしい。そしてそれが元で約二週間後の一一九九年正月十三日に亡くなっている。稲毛重成が相模川に書けた大橋は今の神奈川県茅ヶ崎市で、橋の遺構も発見されている。
君達にはまだ早いけど、土日に競馬放送があるでしょう。あの競馬も含め今も昔も乗馬する人の足は鐙と言って足先を金具に、当時は革で出来ていたかもしれない。それに足を通して固定するようになっている。そのため落馬すると、前のめりに上半身から落下する。特に頭から落下する事が殆どで首の骨を折るなどの大怪我や死に至ると言われる。現代でも競馬の落馬事故死の新聞記事があるくらいだ。その事を併せて考えると頼朝の死は事故遭遇であり不運だったと私は思う。
しかし、それでも頼朝暗殺説がある。それには実はこの稲毛重成の行動が絡んでいるんだ。重成は北條政子の妹、つまり北條時政の娘を妻としている。重成は頼朝亡き後の六年後、一二〇五年(正久二年)、幕府創設に貢献した畠山重忠の謀叛を幕府に訴えて三代将軍実朝の討伐命令を引き出し、畠山重忠一族滅亡のキッカケを作っている。しかし、それが舅北條時政の意向を受けた嘘の訴え、讒訴だったことがすぐ後で露見し、間もなく重成とその一族が有力御家人の三浦義村等に討伐されている。
このことから、重成の橋の落成式に出席した頼朝の死についても舅北條時政の意向があって事故が仕組まれていた。意図的に起されたのではないかと疑われている。時政と頼朝の間が決して仲が良い舅、義理の息子の間ではなかったのでこういうことを言われる原因になったと思う。