(サイカチ物語・第一章・ルーツ・28)

   吾妻鏡に逸話が残されているよ。由利維平は奥州合戦時に出羽地方に回った北陸道軍の大将宇佐美(うさみ)(さね)(まさ)に生け捕りにされた。厨川(くりやがわ)の柵で(より)(とも)の眼前に引き出された。

   頼朝が自ら尋問したわけだけど、その時に、其方の大将泰衡は十七万の大軍を率いていながら部下に殺され僅か二十日ばかりで皆滅んだ。余りに不甲斐ないと思わないかと聞いた。そしたら維平は、血気盛んな兵は広いこの奥州の地を守るためあっちこっちの戦線に立ち討死した。また老兵は進退窮まり自刃した。そして私のようなだらしない者がこうして捕虜になった。主君と最後を共に出来なかったのは残念だ。しかし、主君を不甲斐ないとは思わないと言うんだね。

   その理由が、あなたの父上、源義朝(みなもとのよしとも)殿も同じでしょと言うんだ。平治の乱、源義朝と平清盛の争いだね。その時、海道十五カ国の管領であり数万騎を率きいていた義朝が一日も戦いを支えられず敗れ、逃亡した。義朝は信頼に足る人物と思って身を寄せた長田忠致(おさだただのり)に裏切られお風呂場で騙し討ちに遭い殺された。平清盛が出す恩賞金目当てに首を掻かれた。泰衡が河田(かわだ)次郎(じろう)に裏切られ殺されたのと同じような目に頼朝の父、義朝は遭っている。

   維平はそのことを引き合いに出して、昔と今とで甲乙つけられるものではないと言う。そして、泰衡が管領として支配したところは奥州・出羽の二カ国、日本全国を支配しつつ有る頼朝殿の大軍を泰衡殿は数十日も持ちこたえたのだ。簡単に不甲斐ないと申されるなと言うんだね。

   頼朝は死を恐れない剛胆な受け応えと見識に感心して畠山重忠に由利維平の身を預ける。温情を施すべしと言って、その場を去ったと吾妻鏡にある。僅か何日か後に維平は罪を許され、頼朝の鎌倉凱旋にすら同行している。

   維平が所領を貰ったのはその頃なんだけど、この維平は不運としか言い様がないね。その冬、二、三ヶ月後に起きた藤原の残党・大河(おおかわ)兼任(かねとう)乱の鎮圧のため千葉介常胤・胤正親子に同行して再び岩手、秋田に来ている。年を越した一一九〇年正月に由利郡新屋(あらや)、今の秋田市新屋で戦死している」。

「えーっ。かわいそー。じゃ、誰がその後、この郡図にある土地を管理したのかしら」

「明らかではないけど、維平の子・(これ)(ひさ)が鎌倉幕府に見えるから誰か一族が下向してきたと思うね。ただその後もこの一族は波瀾万丈だ。二十三年後の建保元年(一二一三年)に鎌倉幕府の御家人和田義盛の乱が起きた。その時、義盛に加担したとして息子・維久は領地を没収されている。

   その後に由利郡を所領として賜わったのは頼朝の側女(そばめ)(だい)弐局(にのつぼね)と吾妻鏡にある。彼女は二代将軍頼家(よりいえ)、三代将軍(さね)(とも)の養育係を務め、実朝付きの女房の筆頭格にもなっている。子供が無く、甥の大井(おおい)朝光(ともみつ)を養子にして大井氏一族が信濃(しなのの)(くに)、今の長野県佐久郡から移住している。秋田県の由利市辺りの地名に軽井沢とか沓沢(くつざわ)根々(ねね)()など長野県の佐久郡と共通する地名が今も見られるのはそのせいだ」。

トントンと室のドアを叩く音がして、妻が顔を覗かせた。

「もう十二時半よ。お昼ご飯の時間なのに何の音沙汰も無いからどうしたのかしらと思って。何も無いけどおにぎり作ったわよ。皆で食べて。千葉さん手伝ってくれる」。

千葉さんに私の話もちょうど区切りの付いたところだ。

「はい」。

千葉さんは弾かれた様に勢いよく出て行く。

「皆、早く下りてきてね」

妻が言葉を残し、女性二人が階段を下りていく音がした。

「確かに腹減ったね、行こう」。

「先生、良いすか(良いのですか)?」

「御馳走になります」。

「遠慮すること無いよ。おにぎりって言ってたね。大したしたものじゃ無い。行こう」テーブルの上の資料はそのままに、私の後に二人が続いた。