(サイカチ物語・第一章・ルーツ・27)

 

「気仙沼市の小野寺姓繁栄には不可解なところがある。もともと及川姓を名乗っていた人物が気仙沼の鹿(しし)(おり)地区を治めるようになって鹿折姓を名乗るようになった。

 天正十六年(一五八八年)に浜田の乱が起きた。領地の境界争いに関連して気仙沼赤岩城主の熊谷(くまがい)(なお)(よし)と陸前高田市の浜田城主浜田(はまだ)(ひろ)(つな)が起こした争いだけど、この争いは所領争いにかこつけた主君葛西晴信に対する浜田広綱の謀反(むほん)とも言われている。その時に下鹿(しもしし)(おり)時兼(ときかね)は葛西氏家臣にもかかわらず浜田氏支援に回り、逆に葛西晴信に滅ばされた。

 ところが、晴信の葛西一族が秀吉の奥州仕置きで没落し伊達領になると、どういう訳か時兼は復活し、鹿折地区に戻り及川姓を小野寺姓に変えて住むようになった。その後、子孫が繁栄し、今の鹿折地区の人々はこの小野寺時兼、通称・鹿(しし)(おり)信濃(しなの)の末裔と言われている。小野寺姓が多い根拠だ。千六〇〇年頃から実に四百年もの間、一族が続いていることに成る。驚きだね」。

「苗字のルーツにこんな面白味があるなんて、先ほどから私は聞いていて驚くことばかりです」。

千葉さんが話に加わってきた。

「この藤沢町でも千葉、佐藤、畠山、小野寺、及川の氏姓でたいていの人が該当するって聞いたことありますし、実際、私達の回りがそうですね。私も詳しく調べてみたい。 

 秋田県の郡割図で雄勝郡(おがちぐん)小野寺(おのでら)(みち)(つな)とありますね。こちらの方と気仙沼の小野寺とは何か違いがあるんでしょうか?」。

「気仙沼の小野寺姓は先ほど言ったように及川姓から鹿折姓、小野寺姓と変化しているが、雄勝郡、というより一関市周辺の小野寺姓はこの道綱を発端としている。

 雄勝郡と言えば「稲庭(いなにわ)うどん」だね。秋田県湯沢市(ゆざわし)だ。道綱も奥州征伐に参加し、この地域の所領と地頭職を賜わった。記録にあり間違い無い。

 ただ彼も鎌倉幕府の御家人であり自ら下向してくることはなかった。第四子の小野寺重道(しげみち)を派遣して管理させたという説もあるがハッキリしない。

 その重道の孫に当たる(つね)(みち)が一二五〇年頃に稲庭城を築き領地支配の基盤を強化して行ったと伝えられている。小野寺姓は、下野(しもつけの)(くに)都賀郡(つがぐん)小野寺(おのでら)(ごう)、今の栃木県岩舟町小野寺が発祥の地と言われている。この秋田小野寺一族は戦国時代にこの郡図にある平鹿郡(ひらかぐん)由利郡(ゆりぐん)河辺郡(かわべぐん)最上郡(もがみぐん)にまで勢力を伸ばした。天正十八年(一五九〇年)には横手(よこて)城主で五万四千石程になっていたと伝わっている。

 しかし、秀吉の奥羽仕置き時にタイミング悪く仙北(せんぽく)農民一揆が起こり、秀吉によって所領を三分の二に減らされている。

またその後、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に味方して敗れ、徳川家康に依って子孫は津和野藩預かり、今の島根県津和野町に移住させられたと記録されている。

 今この雄勝郡地域、湯沢市、羽後町(うごまち)東成瀬村(ひがしなるせむら)辺りには小野寺姓が殆ど見られない。佐々木、佐藤、高橋が多い。一関市近辺に見られる小野寺姓は津和野まで付いて行かなかった人が隣の磐井郡内に流れて来たのではないかと言われている」。

「聞いていますと(なん)か歴史というか、時代の変遷が苗字から窺えるなんてロマンがありますね。クラスに由利さんがいるけどこの地域の出身かしら」。

また千葉さんだ。

「本人に聞いてみないと分らないね。郡図にある由利郡由利維(ゆりこれ)(ひら)は討伐された側の藤原(ふじわらの)泰衡(やすひら)に従軍していた。