(サイカチ物語・第一章・ルーツ・25)

 

「系図は無数。世帯の数と同じほど作れる。問題なのはその正確性だね。何か客観的に立証するものがないと信憑性がない。葛西清重を語る葛西系図では盛岡葛西系図と仙台葛西系図がよく知られているけど、やはり相違している。それがこれだ」。(別掲、盛岡葛西系図1~4、仙台葛西系図1~5,ここでは盛岡葛西系図のみ掲載)

「凄い。先生、これ皆、先生が作ったんですか?」。

「作ると言ったって、それぞれの系図に書かれている文面の中から自分が必要な所を、私が理解しやすいように罫線、ヒゲを付けて表にしただけだからね」

   及川君の質問に答えたけど、熊谷君だった。バインダーの中の盛岡系図、仙台系図のインデックスから系図の本文コピーを開いて見た。

「本当だ、実際は全文漢字で縦書きなんですね。官位、何処々々を給わる、何処に住んだか、何があったか、母が誰か法名や享年

まで書いてある」

目を輝かせたている。

「氏姓の祖となったのが誰か、それも書かれているよ。盛岡葛西系図も仙台葛西系図も桓武天皇から始まり、やはり平良文がキーポイントで葛西清重に至っている。

   盛岡葛西系図は清重を初代にすると晴信まで十七代。仙台葛西系図は清重から晴信まで十八代で作られている。

その違いの原因は一五二三年に伊達(だて)尚宗(ひさむね)、君らの知る伊達(だて)政宗(まさむね)より四代前の伊達家当主。その彼の三男、伊達(よし)(はる)が石巻城の葛西家に養子に入っている。これを葛西宗家の代数に入れるか入れないかの違いになっている。一言で言えば、当時、石巻城の葛西氏と登米(とよま)寺池城の葛西氏との間で宗家争いがあった。

   また奥州千葉氏を語る系図には、栗原郡(くりはらぐん)若柳(わかやぎ)(たいら)(せい)千葉系譜、気仙に千葉大系図、本吉町平磯(ひらいそ)の平姓千葉系譜、長坂千葉氏系図、勝部(かつべ)千葉氏正系などの系図がある。

   信憑性を確認するものによく使われるのが神社やお寺に残る寄進状、記録帳、葬儀の時の没年、戒名や供養・法事等を記録した過去帳、その時代の権力者の公式文書、覚え書き、公家や歴史上著名な人物の日記などだ。それらを複合的、重層的に現代に伝えられている系図に突合して真実を探るしかないね。

   葛西氏にかかる系図や歴史に混乱が多いとされているのは、やはり豊臣秀吉による奥州仕置きに要因がある。仕置きによって葛西家が没落したということだけでなく、その後に勃発した葛西一族郎党等による葛西・大崎一揆の鎮圧で葛西氏に伝わる文物が消失した。葛西氏も葛西氏家臣団も皆殺し、離散の憂き目に遭ったことが大きく影響している。千葉さん大体こんなところかな」。

「凄いですね。二人から苗字のルーツって聞いたとき、何の話って思ったけど私も凄く興味が沸いてきました」。