(サイカチ物語・第一章・ルーツ21)
「最初は奥州合戦、所領、移住と入力しました。要領が分かって俺達のクラス仲間の千葉氏とか熊谷氏とか「氏姓」と「奥州合戦」「鎌倉時代」と入力して調べました。
熊谷君が及川君の後を継いで質問した。
「先生のこの郡割図にあるとおり気仙沼等の本吉郡に熊谷直実、陸前高田、釜石、大船渡辺りの気仙郡は金為俊、遠野、宮古等の閉伊郡に佐々木行光。あとこの図にはないけど一関の隣、秋田の雄勝郡に小野寺道綱、平賀郡に松葉なんとか、由利郡に地方豪族の由利仲八郎だったかな?、と分ったんですけど、俺達の苗字に多い及川、畠山、三浦について、この町近辺では出てこない、それがどうなっているのかなって思っています」。
「そこまで調べた?。たいしたもんだね。確かに及川姓は奥州合戦の後の所領、地頭職との関係で言うと表に出てこない。南北朝や室町時代、あるいは戦国時代に葛西氏家臣でありながら勢力を伸ばしたらしく、奥州仕置きの時に葛西晴信が秀吉の上方軍を迎え撃つ体制を取った陣割記録に登米鱒淵城主及川紀伊守猶足、津谷川城主及川美濃次郎頼兼、気仙蛇ケ崎城主及川掃部頭重綱とあるから、今の登米、津谷川、気仙の地域周辺に君達の仲間の及川の苗字のルーツを考えていいと思う。
実際、全国に及川姓を持つ人が約二万世帯七万八千人、うち岩手県南部から宮城県北部、つまりこの地域周辺に五十パーセント以上の人が住んでいるというデータもあるからね」。
「先生、今、鱒淵城主及川なんとかとか、さらっと言いましたけど、そういう記録ってあるんですか?」。
及川君が質問した。
「江戸時代初期に書かれたという葛西真記録や岩手県史に載っているよ」。
私の答えを聞いた及川君が腕組みして後ろに背を伸ばした。
「畠山姓だけど、宮城県柴田郡に鎌倉幕府の御家人畠山重忠が所領を貰っていて、歴史書ではその弟・畠山重家が代官として下向してきたとある。ただその流れからこの藤沢町周辺の畠山姓を考えるより葛西清重の出自に求めた方が良いかもね。前に来た時に葛西清重は養子になって葛西を名乗るようになったと言った話、覚えているかな?」。
「ええ、確か豊島清重、あっ畠山・豊島一族」
熊谷君が反応した。
「そう、よく覚えていたね。葛西清重は養子になる前、埼玉県秩父の畠山・豊島一族であり、千葉介常胤の実の弟葛西重高の養子になったと言ったよね。
実は常胤の妻がその秩父畠山宗家の畠山重弘の娘なんだ。常胤の子供、胤正、師常、胤盛、胤信、胤道、胤頼の六人は畠山重弘の娘から生まれている。奥州合戦の本隊、頼朝の側で大将として活躍した畠山重忠も、氏姓にあるとおり秩父の畠山一族の出だ。彼も頼朝の源平合戦当時から頼朝に従っている。
重忠の父は畠山重能、祖父が重弘。つまり重弘の子の姉弟つながりで畠山重忠と千葉介常胤の子は従兄弟同士だ。清重、常胤、重忠は数代前の祖先が同じ人物に繋がり、住むところは離れていても一族だった。
清重も常胤も重忠も、当時鎌倉幕府創設に関わる重要な御家人で、所領を貰っても地頭職を賜わっても彼らがすぐにこの地に移住したり、定住することはなかった。
かといって誰かが土地の管理をしなければならない。彼等が、清重の所領の胆沢郡から牡鹿郡までの広い地域に畠山の姓と千葉の姓、あるいは葛西の姓をもった者を一族郎党から選び代官として下向させたのは確かだ。またその姓を持った者が郎党として引き連れられて来た者も居たろう。歴史書の中に、清重は二男朝清に奥州の所領を与えたとある。朝清は建保四年一二一六年に、領地の代官として登米郡寺池に下向したとある。その際にも自分の出自の畠山・豊島一族、千葉一族から、その氏姓を持つ郎党を率いて来たとも考えられるね。
東北地方で三浦姓につながるのは三浦義連だね。奥州合戦の後、福島県の耶摩郡、会津郡等四郡を所領として賜わっている。彼もまた自分が鎌倉幕府御家人であり来られる状況にないから代官に孫の何人かを送り込んでいる。
しかし、この三浦姓もこの藤沢の町周辺で言えば、下向してきた葛西・千葉一族の代官の郎党の中に三浦の姓につながる縁者が従属して一緒に付いてきたと考える方が妥当だろうね。先ほどの畠山重忠の母は三浦義明の娘で、義明の息子が鎌倉幕府の重要人物の三浦義澄、三浦義連だ。葛西、千葉、畠山との縁者で三浦姓の者が一緒にこの土地に移住していたとして不思議はない」。