(サイカチ物語・第一章・ルーツ19)
「鎌倉幕府崩壊後の南北朝時代や室町時代は誰を支配者に置くかと土地の所領問題で親子兄弟、親類縁者で争うようになった。戦国時代には下克上といわれるように更に主従の間でも所領地の争奪が行われるようになった。
当然勝った者が親類・郎党の上に立ち、引き連れて土地を移動し、あるいは戦利品の新領地を管理するために自分の親類縁者、郎党を送り込む。人の移動が最も激しい四百年だったと言える。
江戸時代になると幕藩体制が確立し、今で言う戸籍簿・租税台帳に当たる人別帳が整備され人々がその所属する郷や村、村落共同体から容易に移動できなくなった。治安の維持にも納税にも連帯責任を問われる。
土地に人を縛り付ける政策によって各藩の殿様は農産物の収穫を上げる。石高の確保と産業振興で徴税の確実化を図った。そういう歴史を踏まえると、まず頼朝に誰が奥州のどの地域を所領として貰ったか、次に誰がこの町周辺に下向してきたかを知ることができれば南北朝、室町、戦国の各時代に領地の拡縮、人の移動が近隣であったとしても一応この町周辺地域の人々の苗字のルーツは探れることになる。
鎌倉時代も律令制度下の陸奥国や出羽国だ。両国の郡配置と新所領地の地頭職となった鎌倉武士・御家人は誰か、私は、吾妻鏡はもちろん歴史書や各県史、町村史等を参考に拾い出して自分なりに整理してある」。
これがそうなんだ。そう言って私は熊谷君の後ろにある本棚から日本地図と背表紙に書いたA四判の事務用ファイルを取り出した。その中にある一枚の郡割図をテーブルの上に置いた。現在の岩手・宮城県地図に落とした郡割の図である。その各郡には、やはり県町村史や歴史書から自分なりに調べ、頼朝から地頭職に任命されたとされる鎌倉幕府の御家人の名前を記入してある。(別掲3「郡割図一」)
三人の目はカラーペンで色分けした各郡とそこに書かれた鎌倉御家人の名前に注がれ、驚きの表情がみえる。三人それぞれが回し見ている。手にした熊谷君だった。
「吾妻鏡に書かれているという葛西清重に与えられた領地、胆沢、磐井、牡鹿等の郡数カ所拝領は、先生が言うように、江刺、胆沢、磐井、登米、桃生、牡鹿ではないかというのがこの図ですぐ分りますね。前に来た時に先生が言っていましたけど北上川でつながりますね。功績を大きく認めた頼朝が、清重に物流の要の牡鹿郡を飛び地で与えたという説は確かに理解出来ないです」。
千葉さんは熊谷君の言っていることが理解できないまま、また私の熊谷君への応答を待たずに自分の関心事を質問にした。
「常胤の子で黒川郡に千葉胤頼、宮城郡・名取郡に千葉胤道、亘理郡・伊具郡に千葉胤盛と千葉一族がこの地域に集中していますね」。
「常胤は、千葉さんは初めて聞く名前かもしれないね。つまりここに書かれた胤頼、胤道、胤盛は千葉介常胤の息子達だ。
熊谷君も及川君も前に来た時、奥州藤原征伐に東海道軍の総大将であり、その後も残党討伐のため奥州に再び来た千葉介常胤のことを話したけど、覚えているかな?」。
「ええ、覚えています、この地域、町周辺の千葉姓の基になった人と覚えています」。
「及川君が言ったとおりだよ。千葉常胤、千葉介常胤と言う方が一般的だけど、彼は、挙兵した頼朝が石橋山の戦いに負けて伊豆から船で安房国、今の千葉県に逃げ房総半島に上陸した後、頼朝から参陣の要請を受けていち早く応じた人物だ。
その時、治承四年一一八〇年だけど、私が調べた書籍、系図等では常胤六十三歳、息子が六人いて長男胤正四十四歳、次男師常四十二、三男胤盛三十九、四男胤信二十九、五男胤道二十四、六男胤頼二十四歳、五男六男は双子だったみたいだ。これに長男の胤正の嫡男成胤二十五歳、一族こぞって頼朝に従属した。
常胤は頼朝に、まずは住家を堅固にしなければと拠点を鎌倉にすべしと進言しているね。源平合戦には年老いているにもかかわらず一の谷の合戦、壇ノ浦の戦いに参戦、奥州藤原合戦には三手に分かれた進撃軍の一手の総大将を勤め、奥州平定後その功績として陸奥五郡を賜わったと記録されている。その五郡を息子達に分け与えた。それが具体的に誰に何処だったのか歴史書を調べ、この郡割図に私が落とし込んで整理したんだ。
葛西・千葉一族が今の福島県の白河以北、太平洋側の海岸沿い、当時の比較的に開けた地域を賜わったのは奥州藤原征伐の功績だけで無く、それ迄に尽くしてくれた功績に頼朝が報いるものだった。日頃から頼朝の信頼が厚かった証でもある。三人は日本史で保元の乱、平治の乱というのを学んだと思うけど?」。