及川君が最後に言った、皆に絶対受けるよという「皆」が誰を指しているのか、生徒か先生か町の人々か私には分からないが、二人の提案理由を聞いていると、私の家を訪問した時の私の言葉から、この一ヶ月の間に葛西一族がなぜ滅亡したのかということを調べたらしい。今の若者らしく、二人はインターネットに「葛西一族の滅亡」とキーワードを入れて一緒に調べたのだろう。それで葛西一族の滅亡が豊臣秀吉の奥州仕置きにあることはすぐに答えが出たろう。そして、その検索で知った関連項目に着目して、葛西一族や奥州千葉一族、葛西・大崎一揆などを改めて検索し、知識を得たのだろう。事件と悲劇があったんだという二人の言葉から、奥州仕置きに絡んで伊達正宗によって引き起こされた佐沼城のナデ斬り、須江山の惨劇に付いても知ったのだろう。

   二人が吾妻鏡をどの辺りまで読んだか分からない。しかし、漢文口語体の訳とはいえ、貴志正造さんの全訳吾妻鏡全巻を勉強の合間の約一ヶ月で読み終えるはずはない。取りあえずその吾妻鏡から、源頼朝の奥州征伐発向のお供の武士等の記録や鎌倉幕府の新年の鶴岡八幡参詣等の供奉人の記録などを拾えば、鎌倉幕府の御家人にどのような氏姓が連なっていたかが分かる。そして、自分の住む地域に見られる世帯の氏姓や学校のクラス仲間に見られる氏姓と突合すれば、及川君のような何割発言が出てくる。二人は調べているうちに全ての人が苗字を持つようになったのは何時か、その根拠となったのは何かという疑問がわいて、明治政府の戸籍法の制定にたどり着いたのだろう。

   自分のルーツを知りたい、自分の町を知りたい、誰もが一度は持つ欲求だ。調べていて今まで知らなかったルーツや歴史が明らかになる。二人の興奮が分かるような気がした。二人は、学校新聞の記事に自分達の姓のルーツ、葛西一族を取り上げたいという。千葉さんは、なぜそのような話になったのかまだ理解出来ていなかったものの、生徒仲間やこの町の人々の苗字のルーツ、葛西一族や千葉一族と聞いて、その顔は反対しそうにない。しかし私は、二人の提案理由の言葉が一区切りつくと今年度の藤高新聞は年一回の発行で如何(どう)だろうと話しかけた。

   新聞の原案作成には、例年、校内記事のまとめも校外の歩き取材も、また割り付けや編集も二年生と一年生が当たってきた。三年生は就職活動と受験の準備があるため収集した記事の是非の選択と校正等の負担の軽い裏方の作業を担当してきた。しかし今年度は一、二年生がいない。及川君も熊谷君も千葉さんも進学希望で受験勉強集中が必要とされている。受験生なのに、記事を集めること、編集、校正等を行うことは、三人にとってかなりの時間的労力的負担になる。

「君たち二人の提案は分かった。だけど、私は賛成出来ない。長年続けてきた年に二回の発行を一回に減らすことを今日ここで私から提案し、君たちの理解が得られたら校長に進言して了解をとるつもりでいる」。

   そいう私の言葉に及川君も熊谷君も沈黙してしまった。二人の気勢を()ぐ形になった。少しの間、誰も言葉を発しなかった。しかし私は、冷静に判断して、それがベストではないかと思うと付け加えた。熊谷君が口を重そうに開いた。

「先生は年一回の発行で何か記事にしたいと思うものがあるのですか?」

「今年一回でも発行する新聞がまさに五十九年の歴史を閉じる学校新聞だ。この学校の歴史、学校がなくなっても、ここにこういう学校があったという(あかし)というか、それが刻める新聞にすべきではないだろうか。

   定時制の高校でスタートしたとか、千厩(せんまや)高校の分校だったとか、今は跡形も無い木造の藤沢小学校の教室の一部を借りて授業を始め、校庭を借りて運動会をしたとか、それらは今いる生徒はもとより町民の中でも意外に知られていない事だと思う。

  学校の歴史の中にはスポーツや文芸活動で先輩達が獲得した輝かしい事跡もあるだろう、月並みな最終号かもしれないが、それらの記録記事の再掲に加えて、学校がなくなるけど何かが未来につながるような事を一つ表現できたらいい。それで十分新聞部の役割を果たせると思う」。

「学校創立から今日までを思い出の写真で綴る、先輩OB達から写真を集めコメントを頂くのも良いかも」

千葉さんがすぐに賛意を示して発言した。熊谷君が聞いてきた。