四

 及川君の発言の根底には三月初旬に私の家に来た時の葛西清重に関わる逸話があることはすぐに分かる。二人が吾妻鏡をどの程度読み進んだのか、彼らが持ち帰ってから約一ヶ月になる。

「この町の歴史ってどういうこと、何故なの」。

 千葉さんの質問だ。すかさず、及川君が答えた。

「俺たちのルーツを知りたい」。

そういうと、一呼吸置いた。それではわからないと思ったのだろう、後を続けた。

「俺達はこの町を伊達藩、伊達の歴史の中で考えるじゃん。それと世界遺産、世界遺産って平泉藤原三代(四代)で歴史を語る。だけどその藤原文化と伊達藩になる間に四百年も続いた葛西一族が町関連であったなんて、しかも俺達の苗字が鎌倉幕府に関係していたなんて、そんなの知られていないだろう?。平泉藤原三代が滅亡して奥州全域が源頼朝の支配下に置かれた。領地が鎌倉幕府の御家人に分配されて、その御家人がこの藤沢町や近隣に下向してきた。誰が来たのか、そして、現代の苗字にどう残っているのか凄く興味がある。千葉さんもそのうち知りたいと思うよ」。

 また千葉さんの反応を見ようと一拍置いたけど、彼はすぐに続けた。

「勿論調べたら一般的な人、庶民が苗字を持つようになったのは明治初期の戸籍法制定にあるって分かった。しかも法律制定の時に主家の氏姓や名主の苗字を貰って付けた人も多いと言われている。

 だけど俺たち生徒仲間三十八人を調べたら、六割を超える二十四人が及川、小野寺、熊谷、佐々木、千葉、千田、畠山、三浦、伊藤の姓で鎌倉幕府に見られる姓。これに蝦夷地に関わる地元の姓と言われている阿部や佐藤、金野、由利の姓を持つ仲間を併せると、九割の人の苗字が鎌倉幕府の御家人関連と地元にいた地方豪族関連の姓に分かれるんだ。興味が沸かない方が変だよ。

それからこの町の歴史を知りたい。歴史と言っても縄文時代から弥生、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和とあるけど、やっぱり俺たちの苗字に多く関係している鎌倉時代から四百年も続いた葛西一族について調べたいし、記事にまとめたい」。

 及川君がそこまで言うと、熊谷君が続けた。

「春休みにインターネットで調べたんだ。奥州葛西一族物語とか、奥州千葉氏とかブログを立ち上げている人がいる。そのブログの中身はまさに自分達が今住んでいるこの地域に関係しているのに、自分達の祖先の歴史を教えてくれているのに俺達が自分の町の歴史を知らない。誰も口にしないって悲しくない?。

葛西(かさい)(はる)(のぶ)って人物、千葉さん知ってる?。約四百年前に豊臣秀吉の奥州仕置きによって葛西一族は没落した。その時の最後の当主が葛西晴信だ。一族滅亡までの経過、藤沢の陣や濱田の乱、奥州仕置き、葛西・大崎一揆なんて聞いたことある?、ないよな」。

 側で聞いている私には、千葉さんの顔を見ながら話しかける熊谷君の言葉に、既に賛成しろよという意味合いが含まれているように聞こえた。

「葛西氏から伊達氏への支配者の交代、江戸(時代)が始まる前の天正年間、特に一五八九、九〇年にこの町の歴史を大きく変えた事件と悲劇があったんだ」。

熊谷君の言葉を今度は及川君が継いだ。

「俺も熊谷もそうだけど、千葉さんもこの町の人々もこの町に関わって葛西一族の歴史があったなんて、よほどの人でないと知らないと思う。藤沢町史があると父に聞いたので町の図書館に行ってみた。昭和五十四年に発行された藤沢町史本編の上、中、下というのがあって、上編に古代、中世、近世のくくりでこの町の歴史がまとめられていたけど、中世は葛西一族の歴史だけでまとめられているよ。鎌倉、南北朝、室町時代は葛西一族だけ。伊達藩関連の歴史は江戸、明治と一緒に近世に扱われていた。

 どうだろう、藤高新聞の発行は今まで通り年二回、そのスペースで自分達はどこから来たか、この地域の人々の苗字のルーツ、それと葛西一族の滅亡、この町の隠れた歴史と悲劇を取り上げたいと思うんだけど。皆に絶対受けるよ」。