「この町の人々の苗字は鎌倉幕府に関連している。頼朝の奥州平定は幕府が武士に領地の支配権を与えた地頭制度の始まりである。平泉藤原氏が支配していた奥州は勝者、源頼朝によって主従関係にあった武士に所領として分配された。つまり鎌倉の御家人だった武士が、その一族郎党を引き連れて移住してくるきっかけになった。
君達も含めてこの町の人々に見られる及川、小野寺、熊谷、佐々木、千葉、畠山、三浦などの苗字は板東武者といわれる鎌倉幕府の御家人に関係深い氏姓だ。
この藤沢町は藩政の敷かれた江戸時代は伊達藩だった。君達は仙台伊達藩の始祖、伊達政宗に関連して歴史を考えがちだが、頼朝によってこの藤沢町を含む地域一帯を所領として与えられたのは葛西清重で、以後、伊達藩となるまで凡そ四百年間葛西一族が治めてきた土地だ」。
「えーっ」。
あの時、二人は揃って声を上げた。二人に限らずこの町の人々にとって歴史的な昔のことと言えば坂上田村麻呂の東征の話し、八幡太郎義家の活躍、藤原文化と義経、伊達政宗と伊達騒動、松尾芭蕉の奥の細道、殉教者が三百九人にも及ぶ隠れキリシタンにかかるものが口に乗り、葛西一族について語られることは皆無と言ってよかった。
「葛西清重って、どんな活躍をしたのですか?」。
及川君が聞いてきた。
「頼朝の挙兵に参陣し、頼朝の弟である源範頼や義経の平家討伐の西国遠征に従軍した。平家滅亡の最後となった壇ノ浦の合戦では、平家一族より先に九州に渡り平家の退路を断つなど戦功を上げている。またその後、頼朝の奥州藤原合戦に従軍して先陣の役割を果たした。ここでも戦功大だった。頼朝の奥州遠征は二十七、八万人の軍勢だったというから想像してごらん、凄い数だね」。
驚きながらも、そんな数がどうやって来たのかと言う質問だった。言った手前、吾妻鏡の事を話さざるをえなくなった。
「吾妻鏡には頼朝軍は三軍に分かれて進撃し、道々、これと思われる地域の武将に声をかけて討伐軍に組み込んだとある。最終的に県内の紫波郡、今の盛岡市南部の陣ケ岡に集結、その合流した時の総軍勢が二十八万四千と吾妻鏡は記録している」。
「三軍の進撃って?」。
「中央の東山道軍が頼朝の本隊、それと東海道軍、北陸道軍だ。頼朝は当然本隊の総大将で大将畠山重忠と軍を率いて鎌倉街道から下野国、今の栃木県を経て奥州方面へ。千葉介常胤と八田知家が大将として率いる東海道軍が常陸国、今の茨城県を経て岩城・今の福島県浜通り方面へ。比企能員と宇佐見実政が大将として率いる北陸道軍が上野国・今の群馬県、信濃国、今の長野県を通って越後国・今の新潟県から日本海沿いに出羽国、今の山形、秋田方面へ向かったと記録されている。葛西清重は、頼朝の東山道軍・本隊に従軍していた」。
私は立って本棚からバインダーを取り出し、二人の前に自分の手作りの源頼朝奥州遠征ルート図(1189年7,8,9月)(別掲1)と、文治五年(一一八九年)頃の陸奥・奥州・出羽の郡割図(別掲2)を広げた。口で言うよりも絵、図柄の方が人は理解し易い。二人はしばらく一緒に見ていたけど、最初に及川君、そして熊谷君が個別に手にして見ていた。
