始業式は二十分足らずで終わった。講堂から職員室に戻って、生徒名簿一覧と出席簿、配布する時間割表、それに今日のガイダンスに何をすべきか、予め書き抜いておいた自分のメモ用紙を持って教室を覗いた。
真ん中にある石油ストーブの金柵周辺に生徒の塊が出来ていた。教室の窓際は寒い。私が教室に入ると、それぞれが自分の席に着いた。予め教室の黒板に張り出していた座席表に従っていた。また誰が決めた訳でもないが私が教壇に立つと、起立、礼と佐藤浩君が指揮の声を発した。彼は陸上部で中長距離の選手だ。昨年は一万メートルと五千メートル競走でインターハイにも出ている。学業成績は生徒の中程だったが、彼自身の陸上での活躍の実績から生徒の間では顔をよく知られ好かれていた。
「講堂で紹介のあったとおり、今日から君たちの担任になった。宜しく。君たちにとっては最後の高校生活であり、校長先生のお話にもあった通り悔いの無い学校生活を送って欲しいと思います。そうなるよう互いに尊重し、協力し合いましょう・・・。ところで、私もまた来年の三月に卒業します。定年を迎えます」。
エーッという女生徒の声が上がった。この歳頃は何にも大袈裟だ。そう思いながら二十三人、生徒の顔を改めて見回した。
型どおりに男子十五、女子八名の出欠を取り、これから一年間の授業の標準となる一週間の時間割表を配った。生徒に新しい教科書の入手状況を聞いた。この学校では指定教科書取扱書店に生徒自身か親が出向いて事前に取り揃えることになっていた。授業に支障が無いか確認しておく必要があって聞いたが、まだ入手していないと応える者もいた。帰りにでも書店に寄って買い揃えるようにと指導するしかないが、先輩から譲って貰った教科書でも国語の場合は利用できるよと一言余計に補足した。もっとも生徒の方がよく知っている。国語だけではなかった。英語や数学も前年度の三学年の教科書と同じだ。部活等を通して先輩が後輩に教科書を譲るやりとりがあることを耳にしている。
先生の数が減り、部活動の担当の先生も一部替わったことを伝えなければならない。生徒は教科書だけが勉強材料ではない。部活動を通じて集団生活の面白みや協調性や忍耐力など様々な経験を積む。中学生で九割、高校生で八割の生徒が部活動を行っているのは学習指導要領があるからではない。その年代の子供達が自らそれらを欲している。
指導者の指導を受けながら行うことと学習指導要領は規定しているが、自発的に自分でやりたい、取り組みたいとする生徒達の意思を尊重することが第一に大切だ。廃校が決まっていても、生徒達がポジテイブに物事を捉えて勉強にも部活にも取り組む環境を維持したい。それは先生方の願いである。
それだけに、生徒が少ないことを理由にする廃部を極力避けてきた。また各部の活動がおろそかにならないようにと、運動種目で地区大会等の参加に部員が足りなければ運動部の間や運動部と文化部の間で人材の貸し借りを当たり前に認めてきた。俄部員である。
しかし、生徒数の減少は部の見直しを余儀なくさせた。昨年の秋口にあった新人戦にサッカー部は必要な十一人が集められなかった。また野球部は遮二無二、九人だった。女子排球部は六人すら集められなかった。そのことを考慮して、この三つの部について存続廃止の両面から昨年十一月の職員会議で検討された。チーム編成の出来なかったサッカー部は当時二年生部員四名、排球部は二年生部員三名の所属だった。次の年になっても部員の新規増は望めないことと、他の部の生徒に協力を求めても今回の新人戦の時と同じだろうと両部の廃部が決まった。関係する生徒には早く知らせた方が良いと暮れの十二月のうちに廃部が告げられた。
かろうじてチーム編成が出来た野球部は部を存続させることになった。理由の一つは所属する二年生部員が五人だけだが俄部員を入れてチーム編成が出来たこと、二つは生徒達の有志とは言え部を超えて存続の要望があったこと、三つは生徒全体の目を同じ方向に向けさせる部が外にないことが考慮された。選手として参加するだけでなく、応援という形でも参加して喜びや悔しさを生徒達が一緒に味わえる部である。地区野球大会開催地に原則生徒全員で応援に行く。チーム編成が出来るか出来ないかは、三学年のその時に生徒と一緒に考えようということになった。
柔道、卓球、テニス、陸上部は少ない人数でも活動出来ることと地区大会や県大会に個人戦があり存続させることになった。中には、県大会どころか、インターハイに出るだけの実力を示す陸上部の生徒もいるのだ。