「俺も六十の歳に定年になって学校勤めを辞め、それから親父の後を継いで農業に入ったんだがら子供達に農業の素晴らす(し)さ、良さを言っても説得力が無がったべ。
育った俺家は小さな農家で現金収入も余りなくて、す(し)かも世の中、戦後の食うものも満足に無ャ(無い)厳す(し)い時代を引きずっていだ時に、これからは勉強す(し)なければだめだ、農業すん(る)にも勉強が必要だど親父が言って自分達の生活だって苦す(し)いのに東京の大学に行かせでくれだ。
四年経って、岩手に帰って学校の先生になるって俺の報告を聞いだ親父は喜びの余り、万歳をす(し)て苗代づくりをす(し)ていた田んぼにバランスを崩す(し)て尻もづ(ち)搗いだ。三月の末だもの冷たかったべ。泥んこの顔をす(し)て喜んでくれだあの笑顔がこの歳になっても忘れられねャ(ない)。
今でも覚えてっけど(覚えているけど)、その夜に、田んぼは俺がすっ(る)からお前は日曜祭日、休みの日にでも手伝えば良え(良い)。稲も畑のものも作付けの時が何時の時が良いのが、何がこの地方の気候に適す(し)た農作物なのが、そんなのを調べで教えろど言った。農学校を出たわけでも農業の事を専門に学んだわけでもねャ(ない)のに親父は大学出の俺に期待す(し)た。何処の大学でも大学は誰にでも農業の事も教えでくれるものど思い込んでいだらす(し)い。家が貧す(し)くて尋常小学校もろくに通わせてもらえなかった無知な親父だったけんど(けど)、コツコツ働いで耕す田畑が段々ど大きく広がっていくのが親父の一番の楽す(し)みだった。
人間性豊かな人になるための教育、世の中、社会を生きていくための教育、それが先生に求められん(る)のは勿論だども、学校の先生もサラリーマンの一つだべ(よ)。
親父を手伝って土日に子供と一緒に泥んこになるごどがあったけんど(けれども)、子供三人が勤め人の俺を見でいで東京の大学に憧れんのも、給与取りになん(る)のも反対は出来ねャがった。(出来なかった)。それに俺が親父の後を継いで本格的に農業に取り組み始めだ時には三人とも三十代、ニ十代になっていたす(し)、女二人は結婚す(し)て旦那も居だんだもんねャ(居たものね)。長女は子供も居だ。息子も職場で主任だがなんだがって(なんだかという)有る程度の職責を持つ身になっていで俺が農業すっ(する)からお前も帰って来どは言えねャがった(言えなかった)。
それがら二年す(し)てだったべ。息子が三十二、三の時に東京生まれの葛飾区生まれの女性と職場結婚す(し)たんだもの。子供三人は農業には全く関係無ャ(無い)。俺の代で農業も終わりだ。
俺は親父が汗水たらす(し)て苦労す(し)て段々と田んぼを大きくす(し)て来たのを良ぐ知っているがら六十の歳こいで農業に足を踏み入れだ。勉強させでくれだ親父の苦労を思うど四十年近ぐも歩いできだ教育の場を離れるのに未練は無ャがった(無かった)ね。自分の教え子達が盆暮れに都会がら一時帰省ず(し)て来るたびに驚いでいだ。中には俺の姿を見で都会に踏ん切りがついだど田舎さ帰って来て農業に就いだ者も牛飼いの酪農に就いた者も親の後を継いで店っこの経営に精を出す(し)た者もいるべよ(いるよ)。
ん(そう)だども。本当にこれで良いのが、日本の農業はこれで良いのが、田舎はこれで良いのがど思う時が最近はよぐある。世の中の移り変わりだものしゃあながんべ(しょうがない)ど思うげんど(けど)俺方の農協主催のセミナーに参加す(し)て知って驚いだ。