寅次は中学を出ると棟梁に連れられて東京や関東近県に出稼ぎに行った。帰って来る度に大工の腕を上げたと、俺と酒を飲みながらの自慢話と、新築家屋に据え付ける流しやトイレの新製品やハイサッシの窓、フローリングの床、床暖房等の話に田舎っぺの俺は少なからず興味をそそられた。冷蔵庫に電子レンジだのテレビの大型化だの進化する電化製品の話にも感心しながら聞いたもん(の)だ。それから半世紀も過ぎた。寅次は認知症になってしまって、俺を見てどちら様ですかと言われた時には吃驚(びっくり)した。時々街中を徘徊して歩く後を八十三(歳)にもなる婆さん(奥さん)が心配して後を追っている。また暑い夏だというのに厚手のオーバーコートを着て家の前の(せき)のコンクリートの蓋を外し、どぶ掃除に精を出す寅次の姿を見ることがある。一人息子は震災から復興した気仙沼の方の魚の加工工場で働いていると聞いている。一度離婚して、新しい家庭を持ったようなことを聞いたことがあるだけだ。五十の(とし)はとうに過ぎているハズだ。

 

 真向かいが八十を過ぎた寡婦に五十になる娘の二人暮らし。その右隣りは俺の子供達と一緒に遊んだ息子娘が五人も居たけど東京や神奈川だったかに就職して帰ってこない。俺と一緒に土方をしたり日雇いをした両親が亡くなって、空き家のまま数年置かれた家は取り壊されて今は空き地だ。そのまた右隣の家は寡夫と結婚していない五十を過ぎた娘との二人世帯。そのまた右隣は雑貨屋の店を閉めてもう十年になるだろう。両親が亡くなって後を継いだ息子は俺の娘の孝子と同じ歳だからもう六十二、三(歳)になるはずだ。仙台だか福島の大学に進んで、そのまま就職したという息子がいるはずだけど盆暮れにさえ帰ってきたのを見たこともない。結婚したのか子供が居るのかも聞いたこともない。今は夫婦二人でひっそりと暮らしているけど二人が俺の隣近所では一番若い夫婦だ。

 

 真向かいの左隣は小学校の先生をしていた九十(歳)になる婆さんの家だ。ここも旦那は十年も前に亡くなっている。夫婦で小学校と中学校の先生をしていたから隣近所は何時も先生んとこ(所)と言い、定年退職した後も近所の寄り合い等では先生、先生と敬意を表して呼び掛ける。小野寺さんと苗字で呼ぶことはない。先生婆さんは今でも背筋をしゃんと伸ばして語る。一人息子も岩手県内の中学校の先生をしていたとかで、今は定年退職して非常勤講師をしながら一関市街に住んでいると聞いた。日曜日だったか祭日に先生の様子を見に来た折に、母をよろしくと挨拶されたことがある。