日本建築は面白い3「千本釈迦堂と釘無堂」 | 日中韓文化地めぐりのブログ

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 さて、地味な話が続きます^^; まずは京都市にある「大報恩寺本堂」です。千本釈迦堂の名前でも呼ばれますね。建立は1227年、京都洛中最古の建物で、当然国宝です。

 

 見ただけで他の京都市内の仏堂と雰囲気が違いますね。屋根が低くてゆったりとしており、檜皮葺のなめらかさも手伝って、非常におおらかな雰囲気を持っています^^   





まずは大報恩寺本堂の平面図を見ましょう。平面図では、黒い点は柱を表します。


 中央やや上よりに、4本の柱(四天柱)が立った方3間(一間四面)の空間がありますが、この部分が内陣です。外陣はその前面にあり、正面5間×奥行き2間の部分ですね。

 



 注目すべきは、この形です。四天柱を持った方3間(一間四面)の空間の前面に、庇を1間追加した形と考えればいいでしょう。この平面図に当てはまる建物としては、国宝の鶴林寺太子堂があります。




 「鶴林寺太子堂」、1112年建立で国宝です。四天柱を持った方3間(一間四面)の内陣の前に、縋破風の庇を1間追加して外陣とした建物です。円光寺本堂のように、物凄く分かり易い形ですね♪




 もう一度、大報恩寺本堂の平面図です。大報恩寺本堂は、この鶴林寺太子堂の四周に庇を追加した建物と考えられます。そして、外陣内の2つの柱を、虹梁で省略しているわけですね。

 次に、大報恩寺本堂の断面図を見ます。





 大報恩寺本堂の断面図です。太子堂の庇の部分を、大報恩寺本堂では庇のように扱わず、内陣とほぼ変わらない高さの天井を入れています。

 また、本堂で面白いのが、天井の上に直接小屋束を立てていることです。天井を構成する桁(天井桁)が梁の役目を担っており、鎌倉時代から南北朝時代位まで見られる技法だそうです。

 

 それにしても、断面図を見ると、軸部と屋根がかなり分離してきている様子が伺えますね。身舎と庇で成り立った古代以来の構成も、だいぶ崩れています。これにより、日本建築は色んな展開が可能になったことがよく分かります^^

 




 大報恩寺本堂外陣の様子です。上を見上げると、天井を張る空間が外陣中央まで伸びています。天井桁を梁と考えれば、内陣上の梁が外陣上まで到達したと見做せるかも知れません。そして、梁(天井桁)の先端を、外陣の虹梁が支えているわけですね。

 一方、天井を張った空間の前方と左右には、化粧屋根裏空間が取り囲みますが、長寿寺本堂のような屋根形ではないので、外陣内部四周の意匠の不統一はそれほど気になりません。




次に、大阪の国宝「孝恩寺観音堂」の外陣(写真)を見ます。


 大報恩寺本堂の外陣と同じような構成で、天井を張る部分と化粧屋根裏空間に分かれています。おそらく、天井上にある大梁が内陣から外陣上1間分にまで到達しているのでしょう。そして、その大梁先端を、外陣虹梁が支えているのだと思います。大報恩寺本堂の天井桁を、小屋内にある大梁に置き換えれば、観音堂になるのかも知れません。

 ただ、観音堂の外陣は、全ての柱筋に虹梁を入れることによって外陣内を完全な無柱空間としており、大報恩寺より進んだ構成でした。





 そして、また中国の登場です。中国にも同じような構成の建物があるのですね。例えば、写真の「善化寺大雄宝殿」は遼時代の古建築ですが、内陣上にある大梁が外陣上1間分にまで到達し、その先端を外陣に架かる梁で支えていました。

 日本と同じように、中国でも仏像の前面に空間を設ける必要が生じ、こういう構成を生んだのでしょう。非常に興味深いですね。

 

 


最後に、今回登場した大報恩寺本堂と観音堂について、写真2枚分づつ書いておきましょう。



 まずは大報恩寺本堂です。この柱の傷は、応仁の乱時のものだそうです。京都洛中は、応仁の乱や度重なる火災で古い建物が少ないですが、この建物はよく残りましたね。本当に貴重な存在です^^




 内陣四天柱や、それを囲む長押には絵が描かれています。かなり薄くなりちょっと見難いですけど。それと、自分が行った時は、本堂の本尊である行快作の「釈迦如来坐像」(鎌倉時代、重文)が公開されており、拝むことが出来ましたが、暗くてほとんど見えませんでした^^; 因みに行快は、快慶の弟子です。 




 一方、こちらは「孝恩寺観音堂」です。鎌倉時代の建造で、大阪府にある国宝建造物の1つですね。釘無堂の異名を持ちます。




 このお堂は窓(連子窓)が多く、外陣は非常に明るかったです♪ また、孝恩寺は今は密教寺院ではなく浄土宗のお寺ですので、内外陣境の仕切りは取り払われていました。その分、開放的なお堂に思えましたね。



つづく