日本建築は面白い2「双堂の改造」 | 日中韓文化地めぐりのブログ

日中韓文化地めぐりのブログ

日中韓のお寺や観光地を巡るブログです。






 さて、仏堂において、人間のための空間確保の要求が増す中、庇を伸ばして対応した建物があるのは前に書いた通りですが、庇を伸ばしすぎると軒が下がり過ぎる弱点がありました。

 そこで、それ以外の方法も色々考え出されたわけですが、その1つに、仏像を安置する建物の前面に人の上がる建物を作り、両者を1つの大きな屋根で覆う方法があります。





 これは当麻寺本堂の断面図です 非常に分かりやすいので、よく例に出されますね^^ 内陣建物と外陣建物が、1つの大きな屋根に収まっています。このやり方では、人を収容する空間を充分に持ちながら、軒が下がり過ぎることもありません。

 

 この方式の前提になったものが「双堂」と呼ばれるものでした。それは、仏像を安置する建物(正堂)の前に、儀式を行なう建物(礼堂)を建てたもので、既に奈良時代から行なわれ、平安時代には一般的に見られたようです。

 例えば、東大寺法華堂では、奈良時代に既に仏像を安置した建物の前に礼堂が存在したようですし、創建当初の醍醐寺では、正面幅7間の金堂の前に、同じく幅7間の礼堂が建っていたと言われます。





 双堂をイメージするものとしてよく例に出されるのが、上の法隆寺食堂と細殿のコンビです。左の食堂を仏像を安置した建物(正堂)、右側の建物を人が上がる建物(礼堂)と考えれば非常に分かり易いですね^^

  

 平安時代に既に野屋根を架ける様式が見出されていましたから、2つの建物(正堂と礼堂)を接続して並べ、それぞれ内陣と外陣とし、その上に1つの大きな屋根を架ける当麻寺本堂の様式が登場するのは、時間の問題だったでしょう。

 そして、実際に1つの大屋根を架けてみれば、外見上もすっきりとして違和感が無く、また、屋根勾配も強くなるので、雨処理にも利点があることが分かったんだと思われます。

 




 外陣建物のイメージです この部分が礼堂に相当するわけですね。この写真は若狭地方の妙楽寺本堂の外陣で、屋根は寄棟となっていました。


 ただ、外陣や内陣を屋根形にした建物は、数が非常に少ないようです。それは、上の写真を見ればなんとなく分かります。

 写真左側の内外陣境において、柱から左右に挿肘木を出し、中備えに間斗束を入れていますが、これは側柱筋とデザインを合わせるために、わざわざそうしているのだと思われます。それでも、内外陣境において外陣虹梁が大斗に乗らないため、若干デザインが合っていません。






妙楽寺本堂・内外陣境。外陣虹梁が柱に突き刺さっています



 そこで、同じく外陣を屋根形に造る長寿寺本堂では、内外陣境の柱を中途部分少し削り、そこに大斗を貼り付けて外陣虹梁を受けているように見せて、側柱側との意匠の統一を図っており、工作上非常に面倒なことをしています。もし、屋根形でなければ、デザインの乱れはそれほど気になりません。

 

 しかし、小屋組に小屋貫が導入されるまでは、屋根裏空間が高くなった場合、内陣外陣上を屋根形に造ることは、小屋束を短く出来る利点もあり、よく利用されたのかもしれません。

 実際、小屋貫登場以降、屋根形に造るのは廃れていきましたしね。





 妙楽寺本堂は鎌倉時代の築で重文 若狭地方最古の建物と言われます。二重に屋根を架けているとはいえ、それでも屋根がゆったりして見えるのは、近世仏堂の極度に高い屋根を見慣れているからでしょうか。




 湖南三山の1つに数えられる長寿寺の本堂は、12世紀末頃の建立で国宝です ちょうど紅葉の季節に訪問しました。美しかったですね^^




長寿寺本堂の断面図です。この建物も、非常に分かり易いですね。



 野小屋が発達し、軸部と屋根の構造が離れていった結果、こういう建物を造る発想も出てきました。当麻寺本堂や長寿寺本堂は、まさに中世の始まりを告げる建物だと言うことが出来るでしょう。



 最後に1つ。このように屋根の上にさらに大きな屋根を架ける様式は、日本独特のものではなく、中国にも見られます。特に江南地方に多いようですね。江南地方も日本と同じく降水量が多いので、傾斜の強い大屋根を持つ建物も多いようです。




 例えばこんな感じです。化粧屋根の黄檗天井を持つ空間を2つ並べ、その上に大屋根を架けており、当麻寺本堂の様式を思い出させます。ただ、当麻寺本堂の様式は、あくまで双堂を野小屋の発達によって改良して出てきたものであり、中国の様式を導入して登場したわけではないと思います(本当のところはどうか分かりませんが)。


つづく