「細谷十太夫 その波乱万丈の生涯」
  青葉区子平町の龍雲院は、子平町という町名の由来となった林子平の墓があることで知られています。この龍雲院に、『當山八世中興鴉仙直英和尚』という墓碑銘の墓があります。この墓は、明治の混乱で荒れ果てていた龍雲院の復興に功を為し、龍雲院中興の祖といわれる龍雲院八世住職の細谷十太夫直英のものです。墓の側に立てられた木柱には、『負け知らずで有名な』『伊達藩隠密鴉(からす)組の大将 細谷十太夫の墓』と記されています。龍雲院には、墓のほかにも、顕彰碑や細谷地蔵と呼ばれている座像も建てられています。
  細谷十太夫直英は、仙台藩の下級武士で50石取りの大番士だった細谷十吉の長男として1845年(一説に1839年)、仙台城下北五番丁二本杉通で生まれました。両親を幼くして亡くし祖父に育てられました。幼い頃から剛毅果断で剣槍弓銃などの諸芸に通じ、特に鉄砲術を得意としたといいます。いつの頃からか林子平を敬愛し、その著書である『海国兵談』を愛読するといった一面もあったそうです。元服すると京都藩邸詰めとなりますが、芝居小屋で乱闘騒ぎを起こし仙台へ帰還させられ、石巻鋳銭場勤務となります。その後、仙台藩の偵察方(隠密)となり、行商人、土工職人、旅籠屋の下男、料理屋番頭など様々な姿に変装しながら、諸藩の情報収集に当たったといいます。このころ諸国のヤクザの親分衆とも交流を持ったものと考えられます。戊辰戦争が始まると、十太夫は、白河城に近い須賀川で東北地方の大親分を含むヤクザを束ねて、侠客や博徒、猟師や馬方といった士分以外で構成するゲリラ組織「衝撃隊」を結成し、自ら隊長に就任しました。十太夫が黒装束の上に着用していた半てんの背中に八咫烏(やたがらす)の文様が描かれていたことと、衝撃隊が黒装束を身にまとっていたことから、衝撃隊は「鴉(からす)組」とも呼ばれました。十太夫は、「衝撃隊」を率いて三十余戦負け知らずという非凡な戦術の才能を発揮しました。十太夫の衝撃隊は、「細谷鴉と十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と世に謡われ、棚倉藩の十六ささげ隊(誠心隊)とともに新政府軍に非常に恐れられたそうです。十太夫は、仙台藩の最後の決戦となった「旗巻峠の戦い」に参戦し、この戦いに仙台藩が敗れて降伏すると、藩から大金を授かり衝撃隊の兵士たちに分け与え衝撃隊を解散しました。仙台藩降伏後、軍功が認められ藩主の伊達慶邦から200石の加増と武一郎の名を賜り小姓頭に出世しますが、新政府軍から戦犯として指名手配され、追っ手を逃れて逃亡・潜伏します。新政府の捕縛を逃れた十太夫は、戊辰戦争の恩赦が行われると、ようやくその姿を現します。
 こののち十太夫は、戦後の混乱も過ぎた1872年(明治5年)、新政府の「開拓使権少主典」に任ぜられ、翌年、磐前県(現在の福島県浜通り)に赴任します。明治10年には、陸軍少尉として西南の役に従軍し、数々の戦功をあげ、勲六等旭日章を賜ります。1880年(明治13年)には、宮城県職員として牡鹿郡の大街道開墾場長を務めています。明治27年には日清戦争に従軍し陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍しました。帰国後は、警視庁小隊長にもなったそうです。その後、かつての部下を率いて北海道の開拓にも尽力し、幕別町に入植し日高沙流部開墾城司長に就いています。晩年には仙台に戻り、共に戦った戊辰戦争や日清戦争の戦没者を弔うため剃髪得座して仏門に入ります。そして、慕っていた林子平が葬られている龍雲院の住職として明治の混乱の中で荒れ果てていた寺の復興に尽力し龍雲院中興の祖となりました。波乱万丈の生涯を送った十太夫は、1907年(明治40年)に63歳(または68歳)で亡くなりました。十太夫は、多くの小説の登場人物にも採り上げられ、岡本喜八監督による1975年の映画『吶喊(とつかん)』にも十太夫が登場しています。