「米ヶ袋の縛り地蔵と伊東七十郎」
 青葉区の片平丁通りから南に向かう鹿の子清水通という坂道に「米ヶ袋」・「鹿の子清水通」という辻標が建っています。「米ヶ袋」は、片平丁に面し川に向かって緩やかに傾斜した段丘で、片平丁を袋の口に見立てると、ほかの三方が広瀬川に囲まれた袋地になっていることからその名があります。藩政時代は、鷹匠などの特殊な任務をもったものが居住する屋敷があったといい、鷹匠丁、鷹屋通、餌差丁などの名もありました。「鹿の子清水通」は、片平丁から南へ広瀬川に下る坂道で、この辺りには仙台三清水の一つで鹿にまつわる伝説がその名の由来とされている「鹿の子清水」があり、道の名にもなっています。また、江戸時代の地誌「仙台鹿の子」には、砂の底まで水を見通し鹿の子に見えることから鹿の子清水という名があるとも記されています。
 鹿の子清水通の南端の広瀬川河岸には、縄でぐるぐる巻きにされ足元までしっかりきつく縛られた地蔵尊があります。この地蔵尊は、「人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる」と信仰され、願かけに縄で縛る習わしから「縛り地蔵尊」と呼ばれています。この縄は毎年一回だけ例祭の時に解かれるとのことで、現在も毎年7月23・24日に例祭が行われ、お堂を清掃し地蔵の縄を解いてきれいにし、頭巾や前掛けなども新しいものと取り替えるそうです。この「縛り地蔵尊」は、正義のために非業の死を遂げた伊東七十郎の供養のために建てられたと伝えられています。仙台藩の刑場が七北田に移転するまでは、この米ヶ袋が刑場に使用されていて、伊達騒動の登場人物の伊東七十郎もここで斬首されました。伊東七十郎重孝は、伊達藩の武士で、寛文事件(伊達騒動とも呼ばれる)という仙台藩のお家騒動の際に、伊達家の安泰のために対立する一関藩主伊達兵部宗勝を討つことを謀りましたが、事前に計画が漏れ捕縛され、寛文8年(1668年)4月28日、死罪を申し渡され米ヶ袋の刑場で処刑されました。天正16年の郡山合戦では祖父の重信が政宗の身代わりとなって戦死したという武功ある家柄の伊東家一族は、御預け・切腹・流罪・追放などになりました。世間では、文武に優れ気骨ある武士として知られた七十郎の処刑が評判となり、伊達兵部の権力のあり方も注目されるようになりました。その後、涌谷領主伊達安芸の上訴により伊達兵部一派の藩政専断による悪政が明るみとなり、兵部一派が処分され、仙台騒動は一応の決着となり伊達家は安泰となりました。その後、七十郎の名誉も回復され、伊東家も旧禄に復し再興しました。七十郎の遺骸は当初阿弥陀寺(若林区新寺)に葬られましたが、のちに伊東家の菩提所である栽松院(若林区連坊)に墓が造られ祀られました。この仙台藩で起こったお家騒動は、黒田騒動、加賀騒動とともに「三大お家騒動」と呼ばれ、歌舞伎『伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材ともなっています。
 伊東七十郎が処刑された際の次のような話も伝えられています。『七十郎は、処刑の際に処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け、われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに癘鬼(れいき)となって必ず兵部殿を亡すべし」と言った。そのためか万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れず、七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧(かえり)み「あわてるな、心を鎮(しず)めて斬られよ」と叱咤(しつた)した。万右衛門は気を取り直し2度目の太刀で重孝の首を斬り落とした。同時に七十郎の体が果たして天を仰いだという。』万右衛門は、後に七十郎が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り大いに悔いて、七十郎が葬られたという阿弥陀寺の山門前に供養の為に地蔵堂を建て、七十郎の霊を祀ったとも伝えられています。