「美貌の女流歌人原阿佐緒の波瀾の生涯」
 『家ごとに すもも花咲く みちのくの 春べをこもり 病みて久しも』
仙台市太白区茂ケ崎の坂道に建つ宮城県大和町出身の歌人原阿佐緒の歌碑に刻まれた歌です。阿佐緒は、宮城県黒川郡宮床の素封家原家の一人娘として生まれました。宮城県立高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)を病気のため中退し、その後日本女子美術学校(現在の東京都立忍岡高等学校)で日本画を学びます。明治40年同校の講師小原要逸から性暴力を受け妊娠し長男(映画監督の原千秋)を出産します。傷心の中で阿佐緒は、短歌に生きがいを見つけ、明治42年雑誌『女子文壇』に次の歌を投稿し第一位となります。
 『この涙 つひに我が身を 沈むべき 海とならむを 思ひぬはじめ』
 与謝野晶子に才能を見いだされ、歌人への道を歩みだした阿佐緒は、その後『アララギ』に入会し斎藤茂吉や島木赤彦らの指導を受け、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と期待されるようになります。大正3年には洋画家庄子勇と結婚し次男(俳優の原保美)を出産しますが、庄子のDVで結婚生活は破綻し、大正7年に離婚します。このころアララギ重鎮の歌人石原純と知り合い交際するようになります。しかし、新聞に「辞表を提出した石原博士、原阿佐緒女史との経緯が直接原因」との記事が載り、柳原白蓮が夫の伊藤伝右衛門から逃れ若い愛人のもとに向かった白蓮事件とともに大正10年に起きた二大スキャンダル事件としてマスコミや世間を騒がせることになりました。アインシュタインの相対性理論を日本に紹介した東北帝大教授の高名な物理学者の石原純が、大学教授の職と妻子を捨て阿佐緒との恋に走ったのです。阿佐緒は、世界的な物理学者を色仕掛けで誘惑した悪女として世間から激しいバッシングを受けます。この事件で阿佐緒はアララギを事実上追放され、石原もアララギを脱会しました。宮城を離れた二人は千葉県保田に移り住み愛の巣を構えましたが、昭和3年には関係は破局し阿佐緒は保田を去ります。阿佐緒は、昭和4年には大阪の梅田でバー「阿佐緒の家」を始めました。昭和7年には、自身の半生をもとに阿佐緒が原作を書き自ら女優として主演した映画『佳人よ何処へ』が公開され、阿佐緒が作詞し古賀政男が作曲した同名の主題歌(歌唱淡谷のり子)や関連曲『あけみの唄』も発売されました。映画の影響で、ちぢれ髪の「阿佐緒型ヘアスタイル」と「浮気」が当時の流行となりました。阿佐緒の歌集『涙痕』には次のような歌もあります。
 『吾がために 死なむと言ひし 男らの みなながらへぬ おもしろきかな』
「君のためなら死ねると熱く囁いた男たちは、皆まだのうのうと長生きしている。なんとも面白いものですね」という意味の歌です。
 残された短歌には、破滅的哀愁と偽悪的自己顕示が宿っていると評され、恋愛や結婚で味わった空虚な哀しみが想像されます。
 『夏の虫 死をたのしめる ごとくにも  火に身を投ず わがごとくにも』
阿佐緒は、昭和後期になり歌人としても再評価されました。晩年は次男夫婦に引き取られ、昭和44年心不全により80歳で亡くなりました。情熱の歌人、恋多き女といったイメージの阿佐緒ですが、残された四千首の短歌や資料などからは子を慈しむ母親としての、また芸術を志す歌人としての、そしてひとりの人間としての阿佐緒の姿が伝わってきます。女として母として、そして歌人として精一杯生きた生涯でした。ふるさとの大和町では、平成2年に阿佐緒の生家「白壁の家」を原阿佐緒記念館として開館し、平成12年には原阿佐緒の功績を顕彰して優れた短歌作品を表彰する原阿佐緒賞を制定しています。なお、斉藤由貴が阿佐緒を演じたドキュメンタリードラマ『美貌ゆえに波瀾の生涯 歌人原阿佐緒の恋』が平成9年に放送されています。

 

 

 

生家 白壁の家(原阿佐緒記念館)