八千枚大護摩供。生まれて初めての体験でした。


炎の中に見る、不動明王の力を目の前で見て。

住職の限界を越えたギリギリの姿を見ながら、、、

「火」というご神仏を感じながら、、、


過去の苦しみも、今の悩みも、弱い心も焼き尽くすつもりで真言と般若心経を唱えました。


火というのは、物質ではあるけれども決まった形はなく、今の瞬間の姿は次の瞬間にはもうない。

万物を生かすこともその反対も、育成することも維持することも、またその反対に破壊することもできてしまうし、火自身も一瞬で消えて無くなったりもする。


見ることはできても掴むこともできないし。物質なのに物質なのか非物質なのか分からない存在だ。


五行では人体は心臓を火とする。

生命を維持するために熱を作る心臓の働きがある。

精神では「思い」は胸で感じる。

意志の強さや愛の深さは心臓のハートチャクラといわれるエネルギーの働きでもある。


植物が根を張る大地の山や畑は火で焼き尽くされてしまうと、新しい芽が生えて再び蘇る。何度でも何度でも蘇る。


だから、実際の目で見た炎を鏡として自分の心に投影して、心のしがらみも焼き尽くして新たに蘇らせる事を祈りに託す、、、


自分の悩みや苦しみを護摩の火に吐き出して燃やすような思いでいるうちに、いつの間にか自然と戦争もなくなって、世界中が穏やかになりますように、と祈りが大きく変わっていることに気づく。


以前も消してしまった記事に書いたけれど、護摩壇とは大日如来さまのお姿であり、真ん中の丸い釜は大日如来の口なのだ。その大日如来の口の炎に人々の願目が書かれた護摩木を投げ入れて「供物(食事)」として捧げる。だから、欲深いなどと遠慮せずに護摩木を捧げたほうが良い。その願目と本人の行いが一致していたら大日さまはその願いを「ご縁」という形で運んでくれるのだ。

ご神仏の奇跡とは実はこの「ご縁」のことだ。


お寺の住職が「ご縁」のお話しをされたので間違いないと確信した。


帰ってきたら頑張りすぎて、声はカスカス、右手は筋肉痛、腰痛も再発アセアセ


体鍛えよう。食も変えつつあるここ最近だけど、それまで忙しくてここ数年は食がおろそかだったから無理なく少しづつできること続けられる方法を増やしていこう。


「頑張りすぎない」という言葉もあるけれど、時には限界に向かって「頑張る」というのも心を豊かにしてくれる。

今の時代はそれぞれの事情を考慮されないで子供からお年寄りまで全ての人を頑張らせすぎだから、「自己防衛」型の世の中になってしまったんだと思う。

自己防衛では自己発電できず思いっきり自由に羽ばたくようには頑張れないのだ。


心のエネルギーが減っている時は頑張ってはいけないけれど、心のエネルギーが戻ってきたら思いっきり頑張れること、頑張りたいこと、を見つけたらいいね。


昨日のお寺ではないけれど、八千枚大護摩供とはこんな行事です下矢印