いつからなのか覚えていませんが、お腹の中でお空に帰って行かれたママを私たち経験者は「天使ママ」と呼んでいますパパは「天使パパ」です
2ヶ月に一度、おはなし会を開催していて、次は今週日曜日になります。
生まれて間もなくお別れしたママとパパもお申し込みがあれば参加していただいています。
たまたま、今日娘の病院で読む本をと急いでパッと手に取った一冊が、生後八ヶ月でお子様を亡くされたご経験のある和尚様が書かれた本でした。
増補改訂版もあるようで、どちらも古い本なのでとても安価で手に入ります。
「子を亡くす悲しみ」を経験した著名な方々の詩や本の言葉から多く引用して、ご自身の我が子を失った辛く深い悲しみがお地蔵さまとの出会うことによって徐々に変化し「子を亡くした親」としての人生を受け入れて歩んでいくお話しです。
そして、最後に地蔵菩薩の説明と「地蔵菩薩本願經」が載っています、とてもコンパクトサイズになっているのは私が思うに「経本」として持ち歩けるようにこのサイズにされたのではないかと思います。
お地蔵さまといえば、道端でもどこでもよく見かける誰でも馴染みのある仏様です。
もしかしたら事故の現場などで見かけることが多いので、怖いイメージを持つ方もいるかもしれません。
いえいえ、お地蔵様の由来やどんな仏様でどんな役割をしているのかをちゃんと知ると、怖いなんてとんでも無い事がわかります。
先日、施餓鬼供養をしていただき、餓鬼とは六道という地獄のひとつで、なかなか抜け出すことの出来ない地獄に落ちてしまった御霊を助けるために自らが誰もが行きたがらない地獄に急いで飛んでいき瞬時に助けてくださる、全ての人を救済してくださるのがお地蔵さまです。
なので、本当に辛くて苦しくて誰も頼る人がいなかったら神様や仏様を「助けて」と呼んで下さい。神様も仏様も助けを求めてくれるのを待っているのです。
神様や仏様は先回りして助けるわけにはいきません。あくまでも「本人の意志」を確認してからでないと手が出せないのです。これは、生きている人同士でも同じ事が言えますよね。
私は、こう思うのです。
この世に「苦」があるのは神様や仏様の道に向かうためなのではないかと。
だから、先日も御護摩をしていただくにあたってお寺を選ぶ理由のところにも書きましたが、、、。
厄難が去ったらスッキリして終わりなのではなく起きた事についてよく洞察してどうしてそのようなことがおきたかを考えると、原因は自分に繋がりのあるところに必ずあるのだと。それはもしかしたら先祖のように直接自分ではないのかもしれませんが、先祖=自分なので。先祖供養は自分供養です。
そういう視点を持つと自分も業を重ねて子どもや孫に背負わせたり、先祖が知らせている悪い業の連鎖を自分が断ち切らなければならない、という考え方をすることが出来ます。
だから、善い行いを積もう、人を傷つけてはいけないな、など良い事をしたほうが良い理由がわかると思うのです。
難しい経典を読まなくても、目に見えない神様や仏様、亡くなった人の魂の存在を信じる心があればわかるし、逆に信じていない人にはこの考え方は持てないかもしれません。
先日成田山にご一緒した友人と「沖縄」の話になったんです。沖縄は私は一度しか行ったことがないのですが彼女は沖縄で次々と導かれて沖縄を巡ることになった不思議な体験をしてきました。
現地で初めて会う出会う人出会う人に「呼ばれたね」「ここに行きなさい」と。
友人の話を聞いていると、現地の人と交流をしてる中で向こうの方は普段の生活の中に神様がいて当たり前で日常会話の中に「神様」という言葉が沢山出てくる。
私が細々と練習をしているムビラ発祥の地アフリカもそう。
他にもフラダンスを極めた友人もハワイに行った時に現地で聞いた「ペレ」の話しもそう。
自主映画「カンタ!ティモール」も植民地だった東ティモールを独立まで導いたのは自分の命を厭わないほどの揺るぎない信仰心でした。
それは大東亜戦争の前の日本人には当たり前にあった精神でした。
高い精神を持った日本人によって日本以外で救われた国もありました。
今の日本人はその時の日本人ではなくなってしまったのでしょうか?その精神は過去のことになってしまったのでしょうか?
「苦しみ」から得るものは「高い精神性に向かう心」か「ねじ曲がった心」のどちらかなのではないかと思いますが、どちらにするかは人が決めるものではなく自分で決める事です。
我が子を亡くすという究極の悲しみは、両方を同時進行で体験する出来事でもあると思っています。
幸せな親子を見ると悔しくて妬む黒い気持ちが起こり修羅か般若のような自分が現れてくる、同時に命の大切さについてや魂について考えはじめて神性に目覚め始める。
旧暦7月24日は地蔵菩薩の縁日ですので、毎月24日はお地蔵様の縁日とされています。
天使ママさん天使パパさんにこの日を覚えてもらうのも良いかなと思いました。水子供養のためにお寺に行くときにこの日にお地蔵様にお願いすると気持ちが落ち着くかもしれないからです。
付け足しになりますが、曼荼羅の事を書いた大日経を読みながらこう思ったんです。「曼荼羅は自分の心の中にある」だから曼荼羅の中にいる地蔵菩薩も自分の中に居てそのお地蔵さまが自分をもしかしたら救うのかもしれないと。
話はつきず長文になりました。
次のお話会ではお盆も近いのでこの本を紹介してみようと思います