成田山新勝寺は今日まで年に一度の「祇園会」でした。


本当は今日は成田山に行く予定ではありませんでしたが、予定が急遽変更になり、、、


「奥の院 秘仏の大日如来開扉」


「天国宝剣のお加持」


を目指して。



【奥の院】中は洞窟のようになっていて、大日如来様が坐っておられます。
年に一度しかお姿を見ることは出来ないので感動の言葉しか出ません悲しい



【天国の宝剣】「光明堂」で天国宝剣にてお加持をしてもらってきましたおねがい
いただいた御札の由来には

「天国の宝剣」は成田山第一の霊宝にして、歴代の天皇が常に五座の側に奉安せられた、ご守護の宝剣と伝えられます。

とありました。
大きくて重たい宝剣で肩や背中を叩いて魔を゙除いていただきました。


〜天国宝剣の由来記〜

この宝剣は文武天皇の御代、日本最古の刀工、大和国の住人大原左衛門尉天国に命じて作らしめ給えるを以って、世に「天国の宝剣」と尊称せられております。

朱雀天皇の御代、将門が関東の地に乱を起こした折り、天皇が深く憂い、広沢の寛朝大僧正に朝敵降伏の密勅を下され、その出発にあたり「天国の宝剣」を賜りました。
天慶の兵乱依頼一千年余年、当山の宝剣として伝持され今日に至ったものであります。

この宝剣は御本堂不動明王と共に、大威徳を現し、大衆を済度すること度々にして、「当寺大縁起」の中にも「•••若しこの尊の所持する宝剣を頂戴すれば、狂乱失心の者もたちどころに治し、風疾患の類は速やかに癒す、かくの如き神効は枚挙に遑あらず、但し信心浅薄なる者を除くのみ•••」と識るされております。

古来当山では「宝剣頂戴」と称して、御本尊開帳の折には、広くこの法儀を厳修して登山参拝の方々に霊徳を授与しております。

尚。この奥の院に奉安されている大日如来のお祭りである毎年7月の祇園会期間中には宝剣のお加持を奉修いたします。

願わくば、篤信心各位、宝剣を頂戴してもろもろの魔障を除かれんことを。 敬白 大本山成田山新勝寺

ここまで


「日本最古の刀工、大和国の住人大原左衛門尉天国に命じて作らしめ給えるを以って」

とあります。

ほつまつたゑの二十三綾には、剣という名の由来が書いてあります。

天地も 内外も清く
徹る時 三千物部等
白石に 剣拝みて
大物主が 斬るも宝か
ゆえを請ふ

時に天照大神 勅
天の矛 国常立尊の
世にわ未だ 矛無き故は
素直にて 法を守れば
矛要らず

心雪透ぐ 神の世は
億萬歳の寿も 大濡瓊尊(ウビチニ)の世わ
厳かに 飾る心の寿も
百万歳ぞ 面足尊(オモタル)の
民鋭過ぎて 物奪ふ
これに斧もて 斬り治む

斧は木を伐る 器故
鍜錬人に矛を 作らせて
鋭もの斬れば 世継ぎ無し

(略)

これ寿命を結ぶ 神なり
恐るるは 無き罪人斬れば
子種断つ 実に慎めよ
天の神 継ぎなく祭祀
尽きんとす

(略)

また矛も 宝の故は

瓊の道に 国治むれど

其の中に 邪道効く者わ

己が身に合わねば道を

逆に行く ひとり悖れば

友を増し 群れ集まりて

蟠り 


(略)


国乱るれば 田も荒れて
瑞穂登らず 貧しきを
罪人斬りて 耕せば
瑞穂の生りて 民豊か
主税大年 捧ぐれば
八方の賑ひ 田から出る
故に宝ぞ

逆矛も討ち治む故 宝なり

(略)

昔なる 蒼生も十倍に増ゑて
道を触れても 届きかぬ
子孫破るる 基ゐかや
利矛振らば 速やかに
徹らんものと 剣作す
其の時触れて 鍛治人を
十人に剣 作らしむ 
中に一人わ 秀でたり
刃鋭く 水を割る
この鍛治人に 勅
汝が刃 良く鋭利ぞ
然れど左右の活き枯れを
知らず教ゑん しかと聞け

左の眼は春の 活きる頃
左の眼を入れて 錬る剣
活身に近く 枯れ疎し
もし謝るや 恐るなり

右の眼わ秋の 枯らす頃
右の眼を入れて 錬る剣
罪あるものを 枯れといふ
無きは活きなり 右の剣
枯身を好み 活き恐る
これぞ治むる 宝物
これ鍛つべしと 宣給えば
恐れて百日の 物忌みし
右眼ひとつで 鍛る剣
八振り上ぐれば 勅
今この剣 宜至る
我本心に よく叶ひ
御代も治まる 宝物
名も八重垣の剣ぞ

(略)

剣とわ
「つ」わ木の年齢 天に尽きて
枯れる天の尽きぞ
「る」は柴の 乾けば燃ゆる
「るぎ」の火ぞ 
「ぎ」は木の枯れて思ひなし
故に「剣」と 名付くなり

(略)

皇孫より 大国主神の
賜ふ名も まだ足らず我
両神の賜ふ逆矛 幸ひに
其の木を得れば 譲るなり
生まれ素直に 弥真瓊道の(大和道)
教ゑに叶ふ 皇孫の
八重垣の大木 賜ふ名も
弥真瓊大国の御魂神


この章の中にひとりの鍛治人が朝廷から命じられて右目ひとつで罪人を斬る剣を作ったと書かれている箇所があります。
大物主は素戔嗚尊の孫で物部の統括役でもあります。八重垣とは物部の総称だとあります。
垣というのは天の節に現れる魔を遮るから「垣」なのだといいます。物部に向けて罪のない人を斬るなよ、と戒めていますので物部氏とは罪人を斬る役割も担っていたのでしょうか、、、

弥真瓊大国御魂神とは大物主のことです。


時代は違うのですが、天国宝剣を作った大原左衛門天国(聖徳太子と空海の間の時代)
他には大原左衛門尉藤原天国とも書かれていますので大和朝廷で神祇を行っていた藤原氏の流れの方なのでしょう。

宝剣の由来記とほつまつたゑ二十三綾。
少し通じるものを感じるのは、
どちらも世が乱れて世も末というくらいになった時に、宝剣が作られているということです。
文武天皇もまたこのほつまつたゑに伝わる伝説を知っていたに違いありません。

偶然かもしれませんが、
不動明王と宝剣と共に関東に下りた、と書かれていますが不動明王とは西の方位を司る仏様です。
素戔嗚尊が叢雲剣を手に入れたのも出雲(西方)となります。
また、宝剣も叢雲剣も「魔を斬り、世を整える」という意味があります。

「剣」とは想像以上に深い意味があります。

新勝寺のホームページ内には

42代文武天皇即位中の大宝年間に、大和(奈良県)の住人大原左衛門尉藤原天国に命じて作らせたもので、歴代天皇のお守りとして、常に御座のそばに置かれた宝剣です。
天慶2年(939年)に起きた「平将門の乱」の折り、その当時即位していた朱雀天皇は京都大覚寺ゆかりの寛朝僧正に乱平定の平和祈願をお命じになり、不動明王の尊像とともに関東へ下り、国家安穏の護摩法が修されました。その糧としてこの宝剣が朱雀天皇より下されたと伝えられています。
後に、この護摩法が修された千葉県成田市に不動明王を本尊とする成田山新勝寺が建立されました。


ともありますので、新勝寺建立の理由には天国宝剣と深い関わりがある、と解釈します。天皇と成田山は上記のように天皇家と縁があり「紋」の由来の中にもそれが表れています。

余談ですが、ほつまつたゑの二十三綾には興味深い七夕の由来もありました。

※八綾もお待ちください