先日、宮内庁に管理された古文書の事を思い出して触れました。


気になっていたところ「東北は日本の母」ありました。



後ろの方に「序章」がありまして、そこに


二股温泉に鏑邦男先生が訪れた時のエピソードです。

研究仲間から二股温泉の宿主さんからの

「新しく旅館を建てようとして古い家を取り壊したところ、この旧家には「開かずの間」というまったく出口のない部屋があってこの中から大量のホツマ文字て書かれた古文書が出てきた。この文書は現在宮内庁に運ばれて保管しており、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫に預けられていて、宮内庁と宿主さん双方で持っている鍵かわなければ開けられないという」

という話を聞き、福島に向かわれたとのことでした。


もともと仮文化財指定だった建物の修繕が迫り取り代わる時のに宮内庁や文化庁が立ち合いをして(建物は石ではありませんでした、すみません)厚さ10センチもある分厚い板に溝を掘って組み合わせてあるので建物を壊さないと中を見ることはできませんでした。


解体がはじまり、部屋の中のものを見た途端宮内庁の係官から工事が中止が申し渡され、あとは宮内庁直属の者で工事をやるということで地元の人たちは工事から外されてしまいました。


この作業には京都大学で古文書を研究している某教授や奈良女子大学の考古学専門の某教授なども参加していました。


この開かずの間から出てきた文書は漆塗りの大きな櫃に四十七個もあり、雨漏りのために三個は腐っていましたが中は大丈夫でした。

この中の文書はほとんど桐の薄い柾板のようなものに書かれていました。

文字は間違いなくホツマ文字です。


この文書は宮内庁に運び込まれ、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫に保管されており私(宿主)と宮内庁の方で持っている二つの鍵がなければ開けることはできません。

銀行に保管されて以来まだ一度も私は見ていません。マイクロフィルムの長さは四〇〇〇メートルありやす。実は私の兄もこの文書と一緒に宮内庁に入ってしまったのです。兄に尋ねてもお前には関係ないんだといって詳しいことは教えてくれません。

また、担当の元東大教授の式部官某氏も、いずれ時が来たら発表するからと行って教えてくれません。


-ここまで-


※本文の全文ではありません。

※前回は記憶が曖昧ですみません悲しい


ちょうど、松本善之助先生がほつまつたゑを発見した昭和41年、この古文書が見つかったのが42年だったそうで!鏑先生はそのことに不思議な因縁を感じられた、とのことでした。


それからだいぶ時が過ぎ、半世紀近くになり恐らく当時の教授はすでに他界されているであろうと思われますがその発表は未だにありません。


もし発表できない理由があるとしたら、記紀の歴史がガラリと塗り替えられてしまうほどの内容だという事も可能性としては0ではないですよね。


私がお会いしたことのある研修者さんにこの古文書のことを、ちらっと聞いたことがあるのです。

その研究者さんのお弟子さんのような形で研究されていた方でしたので。(鏑先生の著書の眠る倉庫管理をされていると聞きました。)


その方も少し前は宮内庁に知り合いがいたけれど疎遠になってしまったようなことを仰有っていて、ちょっと残念に思った記憶があります。


何があっても後世に残してほしい古文書だと思います。