なーんにも

考えないこと

だニャ




手塚治虫『ブッダ』 第7巻





進化というと、善き方向へと向かうことばかりをイメージしてしまいますが、霊的な世界に善悪はありません。皆さんは道徳観や宗教的な教えをスピリチュアルだとする間違った認識を与えられてしまったので、この点がなかなか理解できない状態に陥っています。



しかし、「愛」とはすべてを受け入れることだと聞いたことがある方は決して少なくはないでしょう。現実世界に生きていると、どうしても善悪、良い悪い、優劣などの区別をつけて評価しようとしてしまいます。しかし、愛とは文字通り善も悪も、優れたものもそうでないものも、美しいことも醜いことも、何もかも受け入れてこそ愛なのです。



「空」が持つ無限の可能性の中には、当然良いとされることも、悪いとされることも含まれます。それらすべてを空自身が知りたいという動機によってすべてが創造され、空の化身である私たちはそれらすべてを経験することによって、空に知らせる役割を担って生まれてきたので、良いことばかりに偏ることはできません。




サアラ『宇宙と神様の真実』大和出版

「空」=「神」=「愛」




わたしがあるものを嫌い、あるものを愛する、そう思っているのかな?言っておくが、わたしは何も嫌いはしない。反感をもたない。すべては生命であり、生命は贈り物だ。言葉にならない宝物、聖なるもののなかの聖なるものなのだよ。 



わたしは生命だ。生命はわたしだから。生命のすべての面に、聖なる目的がある。どんなものにも神が理解し、肯定した理由がある。



どうして、そんなことがありえるのでしょうか?人間が創り出した悪はどうなのですか?



あなたがたが創り出すものはすべて――思考も、品物も、出来事も、それにどんな経験も――神の計画のなかにある。



(中略)



悪と言うが、それはあなたがたがそう呼ぶだけだ。だが、その悪だってわたしは愛する。悪と呼ぶものを通じて、あなたがたは善を知り、神の業を行うことができるからだ。わたしは寒さも暑さも愛している。右も左も愛している。すべては相対的である。すべては、あるものの一部である。



わたしは「善」を愛しているのと同じように、「悪」を愛している。このことが理解できれば、あなたがたは神を理解できるだろう。



でも、わたしは善と悪が存在すると教えられて育ちました。善と悪は対立すると教えられてきました。神の目には、あるものはまずい、いけない、受け入れられないと教えられてきました。



神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないというのは、それがわたしの一部ではないということである。そんなことはありえない。




ニール・ウォルシュ 吉田利子訳

『新装版 神との対話1』サンマーク出版





「諸法空相」は『般若心経」、「諸法実相」は『法華経』に出てきます。どちらも「諸法」を冠していますが、この場合の「法」は「もの」という意味で、「諸法」は宇宙に存在するありとあらゆるもの、森羅万象を指します。



(中略)



みんな「空」なんだから。差別するな、善人だ悪人だと言うな、ということなのですね。



一方、「諸法実相」のほうは、「この世に存在するすべてのものは、そのままで最高の価値をもっている」ということです。つまり、みんな百点なのです。



ですから、善人もなければ悪人もない。すべて、すばらしいのです。 また、みんな百点ならば、そもそも点数をつける必要はない。「諸法実相」は、「点数をつけるな」でもあるのです。




ひろさちや『わたしの歎異抄』すずき出版





ワンネスから分離してきた意味


そのころのレムリアの人たちは、自己や他者といった概念が希薄で、もともと一つの創造者、つまり「神」もしくは「創造の根源」「空」であったいうことに非常に強いリアリティーを持っていました。ですから、「神」や「空」は特別なものであるという感覚ではなく、誰にでも内在する高次の意識だと理解していました。



もともと一つしかなかったものが、わざわざ分離するには理由があります。それは「空」と言われる創造の根源無限に潜在する可能性を知るという大きな目的のためです。だからこそ、一人ひとりが違った可能性を探求しようとしています。何しろ可能性は無限にあるのですから、分担しなければ遅々として進みません。



ですから、一人ひとり違った性質を持ってこの世界に生まれてきた「空」の化身、それを言い換えると「神」です。



このことについては後ほどまた違った角度からお話ししていくことにします。




当時のレムリアの人たちは、このことを深く理解していました。ですから互いの違いを尊重し合い、認め合い、協調することができる意識状態でした。



他を圧倒するような特別な存在だけが神なわけではなく、魂を持つすべての存在は、それぞれに独自性を持った特別な存在であり、つまるところ皆「空」の化身としての神であるということになります。



すべての人は、ETであれ地球人であれ、肉体を持つことで分離を経験していますが、元は創造の根源である神の意識でした。ですから、心を静かに保ち、しばし神としての自分を取り戻すことは、誰にとっても重要な時間となります。



与那国島の近くに沈んでしまった神殿は、そのための神聖な場として、誰もが自由に出入りすることができ、静かな時を過ごすためのものでした。



そこにいる神官たちは、そこにやってきた人たちへの奉仕をすることが役割です。その場を清め、高い意識とつながりやすくするための導きをしていました。ですから、そこには何か特別な絶対神のようなものが祭られていたわけではありませんでした。




サアラ『宇宙と神様の真実』大和出版




「空」=「神」=「愛」= 「マスターソウル」

地球に生まれるいちばんの目的は、霊的な意味では「魂を成長させて、より多くの可能性を探求するため」です。



肉体の死を迎えると、魂は一度アストラル界へと進み、そこで今回の人生でどんな経験を通して何を知ったのか整理します。その後マスターソウルに還って自らをリニューアルし、また次の人生のために必要な情報を持って宇宙のあちこちに散らばっていきます。



つまり、マスターソウルは、自らの好奇心に基づいて「情報」をどこまでも洗練させていくために、宇宙のあらゆる場所に自己の分身である魂を派遣して、成長のゲームを展開しているのです。



ここまでの説明でおわかりのように、私たちの本体は、実はここにいる自分の肉体でも魂でもなく、マスターソウルそのものです。




サアラ 池川明『宇宙人の流儀』大和出版




「空」=「神」=「愛」= 「存在のすべて」

魂――あなたがたの魂――は、知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。だが、知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。 



(中略)



まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。ほかには何もなかった。



その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」――あるのはそれだけで、ほかには何もないから。



(中略)



さて、「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。すばらしいというのは、どんな感じなのか、知りたがった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、すばらしくないとはどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかった。



(中略)



神は、愛が存在するためには――そして純粋な愛である自分を知るためには――対照となるものが存在しなければならないことを知っていた。正反対のものが存在する必要があった。そこで、神は偉大なる極――愛の絶対的対極にあるもの、愛ではないあらゆるもの――を創りあげた。それが現在、「不安」と呼ばれるものだ。不安が存在した瞬間、もまた、体験しうるものとして存在しはじめた。




ニール・ウォルシュ 吉田利子訳

『新装版 神との対話1』サンマーク出版




「空」=「神」=「愛」= 「存在のすべて」=「宇宙」









手塚治虫『ブッダ』 第7巻

あたまのなかで整理するため改行色づけ