“不思議”とは、文字通りに思議しないことである。思いはからうことがないのが不思議である。
わたしたちは病気をマイナス価値だと考える。健康はいいことで、病気はわるいことだとする。金持ちはよくて、貧乏はわるいのである。しかし、それはあくまで人間のつける判断だ。人間の物差しで測った評価である。
ほとけの目でそれを見れば、きっと別な見え方がしているはずだ。
いろんな話がある。ギリシア神話に、親孝行な二人の息子がいた。彼らは、母親が神殿に詣でるとき、牛がいないので牛のかわりをつとめた。
神殿に着いて、母親は神様に、孝行なこの二人の息子に、どうか、
――最高の至福――
を与えてやってください、と願った。すると、その願いが通じたのであろう。翌朝、二人の息子は起きてこなかった。つまり、眠ったまま死んでいたのである。
若くして死ぬことは、人間の物差しで測れば不幸である。しかし、神の目で見れば、それが最高の幸福なのだ。この話はそういうことを言っている。
(中略)
不思議――というのは、人間の物差しを捨てることである。
とはいえ、人間の物差しを捨ててほとけの物差しを持とうというのではない。わたしたちにほとけの物差しは持てない。ほとけさまの目で物事を見ることはできない。
人間の物差しを捨てるだけでよいのだ。 つまり、いっさいの価値判断を放棄するのである。そして、本当に何がいいのか何がわるいのか、何が幸福で何が不幸か、
――わからない――
とあきらめるのが「不思議」である。これができるのが信心である。
信心とは、すべてを不思議だと思えることである。わたしはそのように考えている。
だとすると、信心する人は、はじめからすべてを不思議と思っているから、ご利益を祈らないのである。その点が信仰と違っている。
不思議というのは、人間の物差しを捨てて、すべてをほとけにまかせることだ。
(中略)
したがって、病気になれば、人間の物差しでは病気はマイナス価値であるが、それをそう考えずに、「思議しない」「わからない」と考えるのが信心である。
(中略)
信仰は、病気になったとき、それを人間的物差しでもってマイナスに評価する。そして、神仏に病気を治してくださいと祈りはじめる。しかし、信心は、病気をマイナス価値で捉えないのだ。
神社では、神様に
「健康にしてください」と
ご祈祷においでになる方が多いようですが、
しかしこんな方は、
なかなか神さまのお恵みを
受けることができません。
なぜなら、
「健康にしてください」ということは、
自分が病気だと思っている現れだからです。
「神さま、健康にして頂いて
ありがとうございます」と
感謝をするのが、
本当のことなのです。
心を放てば
神さまのお恵みがいただけます。
いつも心に病気をつかんでいる人は、
病気になりやすく、
逆に
すべてを良い方向に考え、
感謝をしている人は
病気になりにくいのです。
いっぷくからのありがとう
「病気を手放さない人」
23/12/01
良い悪いで決めなさるな。
価値観は、人それぞれじゃ。
良いも悪いもそなた次第じゃ。
悪いことの方が
学びが多い場合もあるのじゃから
一概に悪いと決めつけられぬ。
この人は良い人 この人は悪人
とも決めつけられぬ。
今は悪い人かも知れぬが、
いずれ良い人に
成長するかも知れぬからのう
ジャッジするなかれ。
もっと視野を広げて理解しなされ。
物事を深く理解しなされ。
そなたの考えは
ほんのイチブでしかないのじゃ。
反対側からも見て考えてみなされ。
ハイリスクを恐れるなかれ。
物事をもっと
良き方向に
とらえてみなされ。
するとそなたの世界が、
今よりも広がっていくのじゃ。
ミュー・クリスタル
魂の喜びのまま本当の自分を生きる
「12月15日創造主からのメッセージ」
23/12/15
・辛い経験
・苦しい経験
を経たことで
・優しい気持ち
・お互い様の気持ち
・おかげ様の気持ち
・感謝の気持ち
が芽生えたのならば、
神々の計画が、
大成功したということです。
この美しい心こそ、
この感謝の心こそ
私たちが、地球転生を待ち望み
手に入れたかった、最高のものだからです。
いっぷくからのありがとう
「優しい人」
24/04/02
あたまのなかで整理するため改行色づけ
あきらめる=手放す