地球人にとっての「私」は、魂全体ではなくてごく一部で、みんな人間をやっているパーソナリティーの部分だけを「私」と思っていますよね。



でも、たとえば他の宇宙に飛び出していって生活している人たちは、大元のマスターソウルのほうを「私」と思っています。私の一部がここにも、ここにもいると思っているのです。



(中略)



そもそも「個が」あるのは超意識までで、スーパー意識になると、つまりマスターソウルそのものを自分と認識するならこの人もあの人も自分となるので、意図する何かがあって違う自分を作っているだけで、それがよいとか悪いとかではありません。ただ用途によって性質を変えているだけです。




サアラ 池川明

『「あの世」の本当のしくみ』大和出版





仏の心とは、「すべてのものを〈空〉と見よ」といった仏の教えです。




ひろさちや『[新訳]般若心経』PHP研究所





ワンネスから分離してきた意味


そのころのレムリアの人たちは、自己他者といった概念が希薄で、もともと一つの創造 者、つまり「神」もしくは「創造の根源」「空」であったということに非常に強いリアリティーを持っていました。ですから、「神」や「空」は特別なものであるという感覚ではなく、誰にでも内在する高次の意識だと理解していました。



もともと一つしかなかったものが、わざわざ分離するには理由があります。それは「空」と言われる創造の根源に無限に潜在する可能性を知るという大きな目的のためです。だからこそ、一人ひとりが違った可能性を探求しようとしています。何しろ可能性は無限にあるのですから、分担しなければ遅々として進みません。



ですから、一人ひとり違った性質を持ってこの世界に生まれてきた「空」の化身、それを言い換えると「神」です。



このことについては後ほどまた違った角度からお話ししていくことにします。




当時のレムリアの人たちは、このことを深く理解していました。ですから互いの違いを尊重し合い、認め合い、協調することができる意識状態でした。



他を圧倒するような特別な存在だけが神なわけではなく、魂を持つすべての存在は、それぞれに独自性を持った特別な存在であり、つまるところ皆「空」の化身としての神であるということになります。



すべての人は、ETであれ地球人であれ、肉体を持つことで分離を経験していますが、元は創造の根源である神の意識でした。ですから、心を静かに保ち、しばし神としての自分を取り戻すことは、誰にとっても重要な時間となります。



与那国島の近くに沈んでしまった神殿は、そのための神聖な場として、誰もが自由に出入りすることができ、静かな時を過ごすためのものでした。



そこにいる神官たちは、そこにやってきた人たちへの奉仕をすることが役割です。その場を清め、高い意識とつながりやすくするための導きをしていました。ですから、そこには何か特別な絶対神のようなものが祭られていたわけではありませんでした。




サアラ『宇宙と神様の真実』大和出版

このページを読んでから


「ほんとう」は

ぜんぶ逆なんじゃないか

という気がしてならず



「友だち100人」→「ひとりの静かな時間」

「偶像崇拝」→「全員崇拝」





「遠離一切顛倒夢想」

(おんり いっさい てんどう むそう)

般若心経の中に書いてある言葉です。


意味は、


普通の人が考える

幸や不幸、損や得というものが


神さまや仏からは

まったく逆さになって見える、

ということです。


それを、小林正観さんは、

「宇宙は裏返し構造」と解説しました。




いっぷくからのありがとう

「裏返しの宇宙」

23/06/08

あたまのなかで整理するため改行色づけ