今日、地元の最も人が集まるであろう浜松駅周辺に行ってきた。なるほど、最近あちこちで言われるように、以前と比べてマスクを外した素顔の人が多くなってきた。しかしながら多くなってきたといっても、多く見て2割程度、悲観的に見たら1割程度にすら見える。とはいえ、3月12日(この日以降政府の通達によりマスク着用が個人の判断に委ねられる形となる)以前の、見渡す限り誰もかれもがマスクマスクマスク、マスクをしてないのは自分と、他に数えるほど、といった世にも奇妙な光景に比べたら格段の変化と言えるだろう。浜松という所は、政令指定都市となっているものの、中堅どころの地方の一都市といったスタンスは否めない。最も近い大きい都市というと名古屋、あるいは同じ県内の静岡市ということになるが、この2都市のマスクの状況はどうなのだろう。また、東京、横浜、大阪といった大都市のマスクの現在の状況も気になるところだ。聞くところによると、大きな都市ほど脱マスクが進んでいて、田舎になればなるほど脱マスクが進まないそうである。また、東京よりも大阪の繁華街、道頓堀や梅田といった場所の方がドラスティックに脱マスクが進んでいるそうだ。これはいかにも自由闊達な大阪の街らしい状況と言える。しかしながら、大きな都市の方が脱マスクが進んでいるといっても、東京は進んでいるとか、名古屋は進んでいるとか、浜松は進んでいないなど、一概に言えない。県単位どころか、市単位であっても、くくりが広すぎるのである。例えば、浜松を例にとるならば、自然が豊かな観光地ほどマスクをしていない人は増えるだろうと思う。浜松の観光地と言えば、浜名湖、弁天島、中田島砂丘、また浜松ではないが、浜松から日帰りで行ける御前崎などが挙げられる。

上で、「多くなってきたといっても、多く見て2割程度、悲観的に見たら1割程度にすら見える」と書いた。また、上で書いたように、場所によってマスク率に多少の差はあるといっても、いってしまえば、どこも似たり寄ったりだろう。コロナ禍以降、マスクの着用をはじめコロナウイルスに対する考え方や自治体の方針は全国的にどこも足並みが揃っているという感じでほとんど差がないからだ。なぜ、まだまだ脱マスクの動きが鈍いのだろうか?理由はいくつか挙げられる。まず、どこの企業もいまだ従業員にマスクを着用させているということ。これは結構大きい。自分はマスク着用が個人の判断になって以降、何度も指摘しているが、そもそもマスク着用が個人の判断になったにもかかわらず、いまだ従業員にマスクを着用させているのは間違っている。従業員の個人の判断はどこに行ったのだろうか?最近になってようやくマスク着用の強制が解除された会社もちらほら散見されるようだが、日本人は大層マスクがお好みらしく、会社ではいまだ大半の人間がマスク着用。そんな状況の中、それに合わせて、マスクを外したい人間も引き続きマスクをするという状況になってしまうようだ。つまり強制でないと言っているが、半強制みたいなものなのだ。

もうひとつ脱マスクが鈍化している理由なのだが、この3年間でどっぷりと習慣化してしまった生活スタイルからいまだ切り替われない人間が多くいるということ。まあ、何も考えていない人間も多いのだが。

そして、脱マスクが思うほど進まない最大の理由が紛れもなく「同調」である。その場の空気に合わすと言い換えてもいい。これは自分の中で確信がある。確信の理由を述べる。さる5月3日から5月5日、地元の大きなイベントである浜松まつりに参加した時のことだ。浜松まつりも、他の地方の有名なまつりの例にもれず、コロナ禍以降、3年間(2020年、2021年、2022年)、行動制限の中での催しが続いていた。行動制限やいくつかの規制があったとはいえ、完全に中止になることもなく、開催に至ったのは大いに賛同できるところではあるが、行動制限下の浜松まつりは多かれ少なかれテンションが上がらないことは確かで、参加者にとってはとても満足の行く3年間とは言えなかっただろう。それが、ようやく今年に入って、コロナを取り巻く時勢も変化し通常モードの兆しが見えたということで(3月12日にマスク着用が個人の判断になったことも大きいが、5月8日にコロナウイルスの感染法上の分類がインフルエンザと同じ5類になるということで希望的観測に加速が付いたことも大きいだろう)ほとんどの行動制限が解除され通常の浜松まつりの開催に至ったのである。すなわち、メインイベントである中田島砂丘での凧揚げ合戦も例年通りのスタイル、繁華街の夜を彩る屋台の引き回しも通常通り、浜松まつりならではの、激しい練りも一切の制限なし。たったひとつ、飲酒がダメという不可解な規制があった。祭り気分の中で未成年が飲酒に及ぶというのはそれはそれで問題ではあるが(何も今年に限ったことではないが)、コロナ禍が始まって今年に至るまでの行動制限や規制がコロナウイルスの感染対策に起因するということであるならば、なぜ飲酒だけがアウトなのかまったくもって理解できないところである。これについては、まつりの主催者側、参加側をはじめ、酒販売業者など多方面から市長に異議が寄せられたらしい。

さて、飲酒以外は例年通り開催の浜松まつりに参加して感染対策に関係する制限はなしということであれば(アルコール除菌の設置はあったようだが)、マスクに関してもほとんどの参加者が着用していない。体感的にノーマスクは100%に近かった。加えてマスクをしていないのは法被を着たまつり参加者だけではない。浜松まつりを見に来た一般の観覧者もほとんどがマスクをしていないのである。祭りの最中は当然ながらたくさんの人でごった返しとなる。凧揚げや屋台の引き回しもさることながら、練りでは、文字通り、「密」の中で大声を出しての練り歩きとなる。まさにコロナウイルスどこ吹く風。騒がないで、大声出さないでまつりなんてやってられるか、というところだが、浜松まつりの場においては参加者も観覧者も、誰もコロナ感染のことなんか気にしていない。日頃のマスク着用や感染への懸念とは一体何なのか?このことを今現在のこの国の状況で真面目に問うのはタブーであり、嫌われる可能性もあるのでリアルで表立っては言わないが、「一体この国はどうなっているんだろう?」と、他国の人間でもない日本人の自分は、唖然、不可解の念を通り越して笑うしかない心境である。そう、まさにまつりという非日常的なカーニバルの時だけの儚い浮き世なのである。まつりが終われば元の木阿弥、またぞろ日常モードに戻るのである。多くの人がマスクを着け始める退廃の日常モードに。

まつりの時だけ参加者も観覧者も大半の人がノーマスク姿。日常に戻れば辺りをうかがいながらマスクを着け始める。分かり切っていたことだが、完全に「同調」が支配しているのである。これまでも自分はさんざん指摘したことだが、昨今のマスク着用理由にも様々なものがある。「コロナがまだ怖くて本当に感染対策でマスクしている」という原理主義的な理由から、「顔を隠したいから」「恥ずかしいから」「ブス隠し」「化粧が面倒だから」「マスクしてないと不安になるから」・・・・・・といったクソな理由まで様々だが、最大、最多は「その場の空気に合わす」=「同調」なのである。

この「同調」は、「その場、その時に空気に合わす」といった方がわかりやすいかもしれない。浜松まつりで起こった現象がまさに典型的な例だが、その場その時の群集心理にほとんどの人は流されるのだ。昨今よく言われる「マスクはTPO」といったことも同じことである(TPOなど自分にとっては「マスク美人」「マスクはドレスコード」と同レベルくらいにアホらしいことだと思っているが)。会社帰りに飲み会に行く。社内ではほとんど全員がマスクをしている。飲み会が行われる飲み屋までの行き路もそれまでの惰性で何となくマスク、マスクして店内へ、宴が始まればマスクを外して飲み食っちゃべり、会計の時はまたご丁寧にマスク、帰り路もマスクといった世にも笑えないコントもさんざん見せつけられてきたが、これもTPOといってしまえばその通りである。マスクがマナーであるということも関係しているが、外ではマスク、対して家ではマスクなど外しているに違いないが(ごく一部の真正のバカを除き)、これもTPOということになるのだろう。

自分の家をはじめ、会社や店等の施設内以外の屋外でも依然としてマスクをしている人間は多い。電車内に関しては、内か外の線引きが微妙なものとなる。無論、物理的には屋内である。しかしながら今に至っては電車内だからといって感染対策が過剰になっているわけではない。電車内については、依然として、医師会をはじめとした医療関係者がコロナ禍を終わらさんとすべく、「引き続き混雑した電車内ではマスクが望ましい」と過剰に煽り続けているだけである。ここで言っている内か外かというのは、物理的なことではなく、家の外か中かということである。となれば電車内は外ということになる。ここで何が言いたいかというと、電車内や通りで(通勤、通学、店に物を買いに行く、どこかに遊びに行く等々、何でもいい)のマスク着用についてだ。

この場合、通りすがりの人はほとんどが見知らぬ人ということになる。いわんや、「家からお外に一歩出たら危険がいっぱい」、ことによったら危ない人もヤバい人も歩いているかもしれない。特に女性にとっては重要なことかもしれない。周りが見も知らない人間ばかりなのだからマスクして顔を隠しても全然OK、もっといえば顔を隠した方が都合がいいくらいの感覚になってしまっている人間が一定数いるのではないだろうか。これもいってみればTPOに基づいた行動と言える。かくしてこの3年間、外を歩けば駅の構内も、繁華街の通りも、電車内も、見渡す限りマスクマスクのカオナシ集団の大道行列という世にも奇妙な光景が展開される世の中となってしまった(世界広しといえどもこれほどまでの珍妙な光景というのは日本をおいて他にないであろう)。まあその光景も、文頭に書いたように、ようやくここに来て1割から2割ほどが素顔と、随分マシになってきているが。

通勤、通学等の通り道や電車内では周りはほとんど見も知らぬ人、だからマスクして顔を隠しても(不審者然としていても)全然OK、そういうつもりなのかもしれない。しかしである。通り道や電車内であってもひとつの社会なのである。公の場=パブリックと置き換えてもいい。マスクをしてカオナシになって不審者面していることが失礼だ、甚だ不気味だという感覚は、通りを歩いていたって、電車内にいたって、会社内で同僚や上司といる時や、どこかで親しい人と会っている時と同じく何ら変わらないのである。まさに公の場に出れば「見て見られ」という渦中に誰もが置かれるのだ。この辺りの社会性、公共性という感覚も日本という国は意識が希薄のようだ。

依然続く多数のマスク着用の大半の理由が「同調」ということがはっきりすれば今後の脱マスクの流れや方向性が予測しやすい。今素顔率が1割から2割の割合が3割から4割、そしてマスク:素顔が50:50となればそこからはオセロで白が黒に一気に転じるように一気に脱マスクが加速すると思う(とはいえ、2割から3割とたった1割増やすだけでも実に変化が緩慢で至難の国なのだが)。

現在コロナウイルスの重症化率も致死率もインフルエンザ以下だ(昨年からそうだが)。感染法上の分類が5類になりわかりやすくなったが、風邪の一種なのだ(元からそうなのだが)。世界のガンたる機関WHO、日本のガンたる機関医師会が今更何を言おうがパンデミックは終わったのである(もっとも自分的には始まってもいないと思っているし、医療関係機関、一部政府機関等、利権絡み機関が企てた壮大なパンデミック計画と言う人もいる。自分的にはなにか地球温暖化論と似てなくもない気がするが)。いい加減マスクも終わらないと、否、終わらせないといけないのである。

 

 

 

 

 

 

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