今日、地元の最も人が集まるであろう浜松駅周辺に行ってきた。なるほど、最近あちこちで言われるように、以前と比べてマスクを外した素顔の人が多くなってきた。しかしながら多くなってきたといっても、多く見て2割程度、悲観的に見たら1割程度にすら見える。とはいえ、3月12日(この日以降政府の通達によりマスク着用が個人の判断に委ねられる形となる)以前の、見渡す限り誰もかれもがマスクマスクマスク、マスクをしてないのは自分と、他に数えるほど、といった世にも奇妙な光景に比べたら格段の変化と言えるだろう。浜松という所は、政令指定都市となっているものの、中堅どころの地方の一都市といったスタンスは否めない。最も近い大きい都市というと名古屋、あるいは同じ県内の静岡市ということになるが、この2都市のマスクの状況はどうなのだろう。また、東京、横浜、大阪といった大都市のマスクの現在の状況も気になるところだ。聞くところによると、大きな都市ほど脱マスクが進んでいて、田舎になればなるほど脱マスクが進まないそうである。また、東京よりも大阪の繁華街、道頓堀や梅田といった場所の方がドラスティックに脱マスクが進んでいるそうだ。これはいかにも自由闊達な大阪の街らしい状況と言える。しかしながら、大きな都市の方が脱マスクが進んでいるといっても、東京は進んでいるとか、名古屋は進んでいるとか、浜松は進んでいないなど、一概に言えない。県単位どころか、市単位であっても、くくりが広すぎるのである。例えば、浜松を例にとるならば、自然が豊かな観光地ほどマスクをしていない人は増えるだろうと思う。浜松の観光地と言えば、浜名湖、弁天島、中田島砂丘、また浜松ではないが、浜松から日帰りで行ける御前崎などが挙げられる。

上で、「多くなってきたといっても、多く見て2割程度、悲観的に見たら1割程度にすら見える」と書いた。また、上で書いたように、場所によってマスク率に多少の差はあるといっても、いってしまえば、どこも似たり寄ったりだろう。コロナ禍以降、マスクの着用をはじめコロナウイルスに対する考え方や自治体の方針は全国的にどこも足並みが揃っているという感じでほとんど差がないからだ。なぜ、まだまだ脱マスクの動きが鈍いのだろうか?理由はいくつか挙げられる。まず、どこの企業もいまだ従業員にマスクを着用させているということ。これは結構大きい。自分はマスク着用が個人の判断になって以降、何度も指摘しているが、そもそもマスク着用が個人の判断になったにもかかわらず、いまだ従業員にマスクを着用させているのは間違っている。従業員の個人の判断はどこに行ったのだろうか?最近になってようやくマスク着用の強制が解除された会社もちらほら散見されるようだが、日本人は大層マスクがお好みらしく、会社ではいまだ大半の人間がマスク着用。そんな状況の中、それに合わせて、マスクを外したい人間も引き続きマスクをするという状況になってしまうようだ。つまり強制でないと言っているが、半強制みたいなものなのだ。

もうひとつ脱マスクが鈍化している理由なのだが、この3年間でどっぷりと習慣化してしまった生活スタイルからいまだ切り替われない人間が多くいるということ。まあ、何も考えていない人間も多いのだが。

そして、脱マスクが思うほど進まない最大の理由が紛れもなく「同調」である。その場の空気に合わすと言い換えてもいい。これは自分の中で確信がある。確信の理由を述べる。さる5月3日から5月5日、地元の大きなイベントである浜松まつりに参加した時のことだ。浜松まつりも、他の地方の有名なまつりの例にもれず、コロナ禍以降、3年間(2020年、2021年、2022年)、行動制限の中での催しが続いていた。行動制限やいくつかの規制があったとはいえ、完全に中止になることもなく、開催に至ったのは大いに賛同できるところではあるが、行動制限下の浜松まつりは多かれ少なかれテンションが上がらないことは確かで、参加者にとってはとても満足の行く3年間とは言えなかっただろう。それが、ようやく今年に入って、コロナを取り巻く時勢も変化し通常モードの兆しが見えたということで(3月12日にマスク着用が個人の判断になったことも大きいが、5月8日にコロナウイルスの感染法上の分類がインフルエンザと同じ5類になるということで希望的観測に加速が付いたことも大きいだろう)ほとんどの行動制限が解除され通常の浜松まつりの開催に至ったのである。すなわち、メインイベントである中田島砂丘での凧揚げ合戦も例年通りのスタイル、繁華街の夜を彩る屋台の引き回しも通常通り、浜松まつりならではの、激しい練りも一切の制限なし。たったひとつ、飲酒がダメという不可解な規制があった。祭り気分の中で未成年が飲酒に及ぶというのはそれはそれで問題ではあるが(何も今年に限ったことではないが)、コロナ禍が始まって今年に至るまでの行動制限や規制がコロナウイルスの感染対策に起因するということであるならば、なぜ飲酒だけがアウトなのかまったくもって理解できないところである。これについては、まつりの主催者側、参加側をはじめ、酒販売業者など多方面から市長に異議が寄せられたらしい。

さて、飲酒以外は例年通り開催の浜松まつりに参加して感染対策に関係する制限はなしということであれば(アルコール除菌の設置はあったようだが)、マスクに関してもほとんどの参加者が着用していない。体感的にノーマスクは100%に近かった。加えてマスクをしていないのは法被を着たまつり参加者だけではない。浜松まつりを見に来た一般の観覧者もほとんどがマスクをしていないのである。祭りの最中は当然ながらたくさんの人でごった返しとなる。凧揚げや屋台の引き回しもさることながら、練りでは、文字通り、「密」の中で大声を出しての練り歩きとなる。まさにコロナウイルスどこ吹く風。騒がないで、大声出さないでまつりなんてやってられるか、というところだが、浜松まつりの場においては参加者も観覧者も、誰もコロナ感染のことなんか気にしていない。日頃のマスク着用や感染への懸念とは一体何なのか?このことを今現在のこの国の状況で真面目に問うのはタブーであり、嫌われる可能性もあるのでリアルで表立っては言わないが、「一体この国はどうなっているんだろう?」と、他国の人間でもない日本人の自分は、唖然、不可解の念を通り越して笑うしかない心境である。そう、まさにまつりという非日常的なカーニバルの時だけの儚い浮き世なのである。まつりが終われば元の木阿弥、またぞろ日常モードに戻るのである。多くの人がマスクを着け始める退廃の日常モードに。

まつりの時だけ参加者も観覧者も大半の人がノーマスク姿。日常に戻れば辺りをうかがいながらマスクを着け始める。分かり切っていたことだが、完全に「同調」が支配しているのである。これまでも自分はさんざん指摘したことだが、昨今のマスク着用理由にも様々なものがある。「コロナがまだ怖くて本当に感染対策でマスクしている」という原理主義的な理由から、「顔を隠したいから」「恥ずかしいから」「ブス隠し」「化粧が面倒だから」「マスクしてないと不安になるから」・・・・・・といったクソな理由まで様々だが、最大、最多は「その場の空気に合わす」=「同調」なのである。

この「同調」は、「その場、その時に空気に合わす」といった方がわかりやすいかもしれない。浜松まつりで起こった現象がまさに典型的な例だが、その場その時の群集心理にほとんどの人は流されるのだ。昨今よく言われる「マスクはTPO」といったことも同じことである(TPOなど自分にとっては「マスク美人」「マスクはドレスコード」と同レベルくらいにアホらしいことだと思っているが)。会社帰りに飲み会に行く。社内ではほとんど全員がマスクをしている。飲み会が行われる飲み屋までの行き路もそれまでの惰性で何となくマスク、マスクして店内へ、宴が始まればマスクを外して飲み食っちゃべり、会計の時はまたご丁寧にマスク、帰り路もマスクといった世にも笑えないコントもさんざん見せつけられてきたが、これもTPOといってしまえばその通りである。マスクがマナーであるということも関係しているが、外ではマスク、対して家ではマスクなど外しているに違いないが(ごく一部の真正のバカを除き)、これもTPOということになるのだろう。

自分の家をはじめ、会社や店等の施設内以外の屋外でも依然としてマスクをしている人間は多い。電車内に関しては、内か外の線引きが微妙なものとなる。無論、物理的には屋内である。しかしながら今に至っては電車内だからといって感染対策が過剰になっているわけではない。電車内については、依然として、医師会をはじめとした医療関係者がコロナ禍を終わらさんとすべく、「引き続き混雑した電車内ではマスクが望ましい」と過剰に煽り続けているだけである。ここで言っている内か外かというのは、物理的なことではなく、家の外か中かということである。となれば電車内は外ということになる。ここで何が言いたいかというと、電車内や通りで(通勤、通学、店に物を買いに行く、どこかに遊びに行く等々、何でもいい)のマスク着用についてだ。

この場合、通りすがりの人はほとんどが見知らぬ人ということになる。いわんや、「家からお外に一歩出たら危険がいっぱい」、ことによったら危ない人もヤバい人も歩いているかもしれない。特に女性にとっては重要なことかもしれない。周りが見も知らない人間ばかりなのだからマスクして顔を隠しても全然OK、もっといえば顔を隠した方が都合がいいくらいの感覚になってしまっている人間が一定数いるのではないだろうか。これもいってみればTPOに基づいた行動と言える。かくしてこの3年間、外を歩けば駅の構内も、繁華街の通りも、電車内も、見渡す限りマスクマスクのカオナシ集団の大道行列という世にも奇妙な光景が展開される世の中となってしまった(世界広しといえどもこれほどまでの珍妙な光景というのは日本をおいて他にないであろう)。まあその光景も、文頭に書いたように、ようやくここに来て1割から2割ほどが素顔と、随分マシになってきているが。

通勤、通学等の通り道や電車内では周りはほとんど見も知らぬ人、だからマスクして顔を隠しても(不審者然としていても)全然OK、そういうつもりなのかもしれない。しかしである。通り道や電車内であってもひとつの社会なのである。公の場=パブリックと置き換えてもいい。マスクをしてカオナシになって不審者面していることが失礼だ、甚だ不気味だという感覚は、通りを歩いていたって、電車内にいたって、会社内で同僚や上司といる時や、どこかで親しい人と会っている時と同じく何ら変わらないのである。まさに公の場に出れば「見て見られ」という渦中に誰もが置かれるのだ。この辺りの社会性、公共性という感覚も日本という国は意識が希薄のようだ。

依然続く多数のマスク着用の大半の理由が「同調」ということがはっきりすれば今後の脱マスクの流れや方向性が予測しやすい。今素顔率が1割から2割の割合が3割から4割、そしてマスク:素顔が50:50となればそこからはオセロで白が黒に一気に転じるように一気に脱マスクが加速すると思う(とはいえ、2割から3割とたった1割増やすだけでも実に変化が緩慢で至難の国なのだが)。

現在コロナウイルスの重症化率も致死率もインフルエンザ以下だ(昨年からそうだが)。感染法上の分類が5類になりわかりやすくなったが、風邪の一種なのだ(元からそうなのだが)。世界のガンたる機関WHO、日本のガンたる機関医師会が今更何を言おうがパンデミックは終わったのである(もっとも自分的には始まってもいないと思っているし、医療関係機関、一部政府機関等、利権絡み機関が企てた壮大なパンデミック計画と言う人もいる。自分的にはなにか地球温暖化論と似てなくもない気がするが)。いい加減マスクも終わらないと、否、終わらせないといけないのである。

 

 

 

 

 

 

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今さっき 、「まだまだマスク姿が多い。不気味にマスクして顔を隠して不審者面している人が多い社会がおかしくないわけがない。マスクして不審者面してることが人として問題なんだよ、失礼なんだよ、感染対策以外でマスクなど間違ってるんだよ、ということが声高に言われる社会の風潮にしていかなければいけない。」とツイートした。

そういえば、いつも行きつけのコンビニの店長さんらしき人が1か月ほど前からマスクを外して素顔で接客している(しかしながら他の店員は全員マスク姿だ)。お店ではまだまだマスク姿の店員が多い中、大いに手放しで評価したい。店長さんらしき人も、「接客する際にマスク姿など失礼千万」と接客アピアランスの基本の基本に立ち返って一念発起したに違いない(勿論、3月13日にマスク着用が個人の判断になったことや5月8日にコロナウイルスの感染法上の分類が5類になったことも少なからず関係していると思うが)。そしてマスクを外した店長さんらしき人は今こう思っていることだろう。「何て今まで自分はバカげたことをしていたんだ」と。

いまだ多くの人がマスクしている最大の理由は同調と空気である。これについては確信がある。それとは別に、最近多い、「顔を隠していたい」とするマスク着用理由について改めて考えてみたい。私自身、人前で、公の場で「顔を隠したい」という心理は、「人としてどうなんだ」というレベルであり、当然私の理解の範疇をゆうに超えている。人前で、公の場で顔を隠したいというのは、不審者だけがやることである。マスクをして顔を隠している人が不審者のような疚しい気持ちがなくても、見た目、自ずと不審者面になってしまうのである。ここまでマスクのカオナシ不審者が大量発生したのは、多くの人がそのことを社会問題とせず、「マスク着用は個人の判断。するもしないも自由」の名の下に、許容してしまっているからである。最近では、男女2人、男同士3人で歩いていて、男のほうは素顔なのに女はマスク面、3人の中で2人はマスク、1人は素顔というのも多い。如何にその仲が親密だといっても、彼あるいは彼女のマスク姿に他は何も言わないのである。確かに言えないのも分かる。「本当にまだコロナが怖くて感染対策でマスクをし続けている」という人もいるだろうし。しかしである。マスク着用が感染対策以外の理由であるならば、親密だからこそ、彼は彼女に「顔を隠したいという理由でマスクすることは間違っている」ということを言わなければならないと思う。また、最近よくある、「化粧が面倒だから」というやつ。これに関しても、私は多くの女性に言いたい。「頭から靴の先までバッチリお洒落にコーディネートを決めたとしたとしてもマスクで全部台無しになる」と。またぞろ、ファッション誌の影響か何か知らないが、マスクはもうひとつのファッションなんて言ってるバカもいる。マスクはファッションなどと本気で言っているとしたら私は思わず彼女にこう言うだろう。「極めて悪趣味ですね」と。

もうひとつ「顔を隠したい」という心理についてこう考える。要は、公の場でできる限り特定されず匿名でいたいということだろう。スマホをはじめとするネットの世界では匿名性はネットの特長のひとつであり、私自身もメリットとしている部分である。現にわたしもこうして実名を出さずペンネームでブログをやっているのだから。ネット上では大部分の人が匿名であり、実名や顔を出している人は名前を売っている人である。すなわち、芸能人、政治家がその代表として挙げられる。マスクで顔を隠したい人は、このネット(二次元)の匿名性を三次元でやってしまっている人と言ってもいいのである。よく「マスクしていると安心する」とか「マスクしていると気が大きくなる」なんていうことを耳にするが、これってネットの掲示板やニュース等のコメント欄で、顔も名前もわからないことで気が大きくなってなんでも言えてしまうという感じと似てなくもない気がする。自分の場合も、ブログで言いたいことを言い、言いたいことをツイートしているわけだから匿名で気が大きくなる心理は理解できるが、まさか三次元でそれをやるほど愚かではない。あくまでネットはネットであり、リアル世界はリアル世界である。「次元が違う」というのはまさにそのことなのである。ここのおいても、間違った道具の使い方をしている日本人が結構いるんじゃないかと思う。この、ネットの匿名性をリアルでやってしまうということ。このことを取ってみても、日本社会の、想像を超えた異常性を垣間見るのである。

この3年の中で繰り返し言ってきたのでいい加減辟易してしまうが(大きな川の流れに逆らって泳いでいるようなものだから)、分からないのであれば何度も言わなければならないだろう。このマスク社会は間違っている。本気で感染対策としてマスクしいるのではなくて別の下らない理由でいまだにマスクしてる人は、コロナ利権で潤った医療関係者、マスゴミ、一定数の政治家に加担しているといっても過言ではないんだよと言いたい。マスクし続けていれば、人災としての、ムードとしてのコロナ馬鹿騒ぎはいつまで経っても終わらないのだ。

 

 

 

 

 

 

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前々回のブログ、「 バッハのポロネーズ(B Minor BMV1067)をピアノで弾く」 ではバッハの「ポロネーズ ロ短調 BMV1067」を挙げたんだけど、これはなんだかんだ言ってもフルート曲として有名だ。で、今回、youtubeを見てわかったんだけど、ピアノ曲としてのバッハのポロネーズといえば、「ト短調 BMV Anh119」が有名なんだね(不肖の私は今日初めて知りました(;^_^)。

ポロネーズは音楽のひとつの種類なんだけど、一口にバッハのポロネーズといっても何曲かあるし、ガボットも、マーチも、同じようにいくつかある。メヌエットも何曲かある(あまりにも有名な、誰でも聞いたことがあるであろうメヌエット ト長調なんかは最近になってバッハの作ではないと言われている)。このように曲が短い小品がいくつもあるバッハだが、まだまだ何曲かピアノで弾いてみる価値はありそうだな(自分の場合、メヌエットに関しては、どちらも定番のト長調(BMV Anh114)とト短調(BMV Anh115)の2曲しかマスターしていない)。バッハだからすべて佳作以上のものであるに違いない。

で、この「ポロネーズト短調 BMV Anh119」、メロディが印象的なので弾いてみようと思っている。

 

バッハのピアノ楽譜で自分が持ってるのはこれ。一連のメヌエット、ポロネーズ、マーチ、ガボットetc.の他、かの有名な「平均律クラヴィア曲集」からの「プレリュード」、「インベンション 13」が載っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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★「PIANO NOCTURNES」(CD音源)

 

 

CD店でふと手に取って購入。もう20年くらい前になるかなあ。2枚組。サティだとか、リストだとか、チャイコフスキー、モーツァルト、ドビュッシーといった作曲家のピアノ曲が収められている。ピアニストは、Mikhail Pletniv、Jean-Bernard Pommierなど多数。このアルバムでいつも聴く曲は、チャイコフスキーの「Octobre」とモーツァルトの「SONATE A minor K.310-Ⅱ Andante cantabile con espressione」に絞られる。モーツァルトの方は、A minorといっても、メジャーキーから始まる。モーツァルトの場合、転調して場面転回しても起承転結、自然なつながりがある。ベートーベンの場合、場面転回に何のつながりもなく滅茶苦茶。主旋律を司る曲に何の関連もない別の曲を持ってきて継ぎはぎしてるだけである(ベートーベン本人はそれで自分で盛り上がっているのだろうが)。ドビュッシー、ラベル、サティの一連のロマン派はその思わせぶりなところが嫌い。

 

★「メンデルスゾーン無言歌集(全48曲)/イルゼ・フォン・アルペンハイム(ピアノ)」(CD音源)

 

 

メンデルスゾーンって人は、つくづく「押し」がない人なんだと思う。そこが良さでもあるんだが。現代のポピュラー作品は勿論、これが書かれた19世紀中期でも、聴く人々に強い印象を与えるには(自分の曲を聴いてもらうためには)、多かれ少なかれインパクトが必要だったはずだ。そういった意味で彼の押しのなさは、大きなデメリットでもあっただろう。言うまでもなく、「押しのなさ」は曲にも表れていて、強いインパクトを与えないまま曲が流れて行ってしまっているという感じだ。主張のなさはタイトルに現れている。「Songs Without Words」だもんなあ。しかしまあ、オペラや讃美歌や唱歌以外、歌がない曲がメインのクラシックではまさに地で行くタイトルかもしれない。

 

★「主よ、人の望みの喜びよ/バッハ/清塚信也 『ぐっすり眠れるピアノ』より」(MP3音源)

 

 

5、6年前だったか、何年か前に、「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノ曲が聴きたくて、アマゾンで何人かのピアニストのこの曲の演奏を試聴した。何人かのピアニストの演奏を聴いていく中で当然ながら自分的にしっくりくるものもあれば好きになれないものもあったり・・・・・・・・・。譜面は何種類も存在するはずだが、あるピアニストの演奏なんかは、音程が違っていたりなんかする。おそらくピアニストによって音程を独自に捉えているから違和感を感じるのだろう。つまりその人の中では「主よ、人の望みの喜びよ」の旋律がそう聴こえているのだろう。そうして何人かのピアニストを聴いている中で清塚信也、この人の演奏が一番しっくりきたのだ。実はこの人、この時に名前を知るまでどんな人か知らなかったのだ。この時は、何だか固いイメージのある地味なクラシック畑のおやじピアニストだと思っていた。その後、youtubeでこの人の色んな動画を見て、笑いも取る漫談ピアニストであることを知ったのだ。

 

★「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ/バッハ/前田健治/ヴィルヘルム・ケンプ編曲 『クラシック入門 BEST50 Vol.1』」(MP3音源)

 

 

このピアニストのことはいまだよく知らない。ただ何となくこの曲のピアノバージョンを聴きたくてピックアップしただけである。この曲は「コラル」と呼ばれるもので、ひとつの讃美歌といっていいだろう。そんな歌ものでありながら、歌なしのオルガン曲としての方が有名な曲で、歌では本来伴奏である部分が主旋律になっており、歌の部分が下声になっているという奇妙な足跡がある曲である。この曲をピアノで聴くと、いまだバッハの曲をピアノで演奏することに対し多くの議論を呼ぶのもわかる気がする。というかバッハの曲にもピアノが合う曲と合わない曲があるようだ。この曲の場合は、どちらかというと合わない曲ということになってしまう。バッハの曲がピアノで弾かれ始めたことに関しては、「ピアノの時代なのだからバッハの曲もピアノで弾こう!偉大なるバッハの曲なのだから合わない楽器はない」というノリだったのだろうが(笑)、ピアノで弾いたらどんな感じになるだろう?といった興味本位の域を出ておらず、やはりオルガンで弾くのが本来の曲だけど、気分転換に真新しいものを聴きたいといった時に聴くに過ぎないという感じがする(勿論、ピアノが合う曲もあるのだが)。

 

★「ピアノソナタ第8番ハ短調作品13『悲愴』より第2楽章/ベートーベン/前田健治  『誰もが聴きたいクラシック BEST50!』(MP3音源)

 

 

上のモーツァルトのところで書いたベートーベンへのボロクソの典型がこの曲である。ベートーベンといえばこの曲と言えるくらいあまりにも有名な曲である。で、この曲の例の転回部分が問題なのである。主旋律部から短調となってこの曲の場面はガラリと変わるのだが、曲のつながりや起承転結を考えず別の曲を持ってきて足しただけという印象なのだ。転回が唐突過ぎて不自然に聴こえる。何が言いたいか?そう、私はベートーベンの音楽が好きじゃないのだ。「第九」だの、「エリーゼのために」だの、「運命」だの、この「悲愴」だの、ベートーベンの曲は非常にわかりやすい。曲がドラマチックでオーバーで激情的だ。そういう意味では「インパクトこそすべて」といった音楽で、彼自身、曲にインパクトや主張がなければ人にアピールできないといったことをよくよく心得ていた作曲家だったに違いない。しかしながら彼自身のドラマは私には些か合わない。彼の音楽の❝わかりやすさ❞は、おおよそ知的、思考的なものとは言えず、いってみれば何も考えず派手に盛り上がろう的な音楽なのだ。はっきりいえば稚拙なのだ。だから毎年毎年、大みそかは意味不明に第九なのだ(笑)。

 

★「8つの演奏会用エチュード/ニコライカプースチン」

 

 

もはやジャズとかクラシックとかジャンルに当てはめて語るものではないのだろう。チャイコフスキーに、ムソルグスキー、ストラビンスキー、ラフマニノフ、そして唐突にロシア国歌・・・・・・・・etc.。カプースチン、彼もまたもうひとつのおそるべきロシアの作曲家である。しかしこの音楽、どんな時に聴くものなんだろう?

 

 

 

 

 

 

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・・・・・なんてことをやっているのである。しかも譜面はフルート、ギター、チェロの三重奏譜である(よってフルート部分を右手でチェロ部分を左手で弾いている)。

この曲はフルートの定番曲だが、この独特の旋律はバッハのバロックの中でも異色作と呼べるものではないだろうか。自分的にはショパンのポロネーズよりも数倍好きである(というかわたしはショパンが嫌いだ)。

この曲はアーティキュレーションを意識してメリハリのある演奏をすると❝らしさ❞が出る。と言ったものの、これが難しい。下手な自分が弾くといまいちアーティキュレーションが出せず流れるように弾いてしまう。

「ピアノで弾く」といっても、所有のKORG Grandstageで色々音色を変えて演奏している(自分の場合、これは他の曲にも言えていて、ピアノ一本にこだわることなく次から次へと同じ曲で音色を変えて演奏していることが多い。ひとつの音色でずっと弾いていると飽きてしまうのだ)。バッハのポロネーズの場合、ピアノ音色よりもチャーチオルガン系音色、ストリングス音色の方が合うと思う(この曲に限らず、バッハの場合、ピアノよりオルガンの方が合う場合が多いのは当然である。バッハの曲をピアノで演奏することは今では当たり前のことになっているが、いまだに多くの議論がある)。

Grandstageではスプリット機能が付いているので(右手パートと左手パートの音色を2つに分けることができる機能。その際、どこのキーから分けるといったことも自在に行える)、右手をフルートで左手をベース及びライドシンバルで試したことがある。やってみるとわかるが、あまり面白くない。自分はジャズ的に弾けるようなテクニックもないし。何か意外性がなくて、これならピアノ音色の方が意外性があってまだいい(管楽器は電子ピアノのサンプリング音では最も再現しずらい楽器で、生のフルートとは大分違ったものになってしまう)。

 

主旋律の部分。このへんはまだ難しくない。

 

 

このへんもまだ・・・・・・・・・

 

 

このへんから難しくなってくる(;^_^A 左手部(チェロ部)が主旋律と同様のキーを奏でているのが面白い。

チェロ部16小節目の3拍目の16分のドシラドを8分でド→(ドラ=和音)と簡略化して弾く(笑)。

 

 

こちらも、チェロ部20小節目の3拍目ミレドシを8分でレ→ドと簡略化(笑)。21小節目も、ドシラソファ

を4分で(ドシ=和音)→2分で(ドシファ=和音)に簡略して弾く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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