★「PIANO NOCTURNES」(CD音源)

 

 

CD店でふと手に取って購入。もう20年くらい前になるかなあ。2枚組。サティだとか、リストだとか、チャイコフスキー、モーツァルト、ドビュッシーといった作曲家のピアノ曲が収められている。ピアニストは、Mikhail Pletniv、Jean-Bernard Pommierなど多数。このアルバムでいつも聴く曲は、チャイコフスキーの「Octobre」とモーツァルトの「SONATE A minor K.310-Ⅱ Andante cantabile con espressione」に絞られる。モーツァルトの方は、A minorといっても、メジャーキーから始まる。モーツァルトの場合、転調して場面転回しても起承転結、自然なつながりがある。ベートーベンの場合、場面転回に何のつながりもなく滅茶苦茶。主旋律を司る曲に何の関連もない別の曲を持ってきて継ぎはぎしてるだけである(ベートーベン本人はそれで自分で盛り上がっているのだろうが)。ドビュッシー、ラベル、サティの一連のロマン派はその思わせぶりなところが嫌い。

 

★「メンデルスゾーン無言歌集(全48曲)/イルゼ・フォン・アルペンハイム(ピアノ)」(CD音源)

 

 

メンデルスゾーンって人は、つくづく「押し」がない人なんだと思う。そこが良さでもあるんだが。現代のポピュラー作品は勿論、これが書かれた19世紀中期でも、聴く人々に強い印象を与えるには(自分の曲を聴いてもらうためには)、多かれ少なかれインパクトが必要だったはずだ。そういった意味で彼の押しのなさは、大きなデメリットでもあっただろう。言うまでもなく、「押しのなさ」は曲にも表れていて、強いインパクトを与えないまま曲が流れて行ってしまっているという感じだ。主張のなさはタイトルに現れている。「Songs Without Words」だもんなあ。しかしまあ、オペラや讃美歌や唱歌以外、歌がない曲がメインのクラシックではまさに地で行くタイトルかもしれない。

 

★「主よ、人の望みの喜びよ/バッハ/清塚信也 『ぐっすり眠れるピアノ』より」(MP3音源)

 

 

5、6年前だったか、何年か前に、「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノ曲が聴きたくて、アマゾンで何人かのピアニストのこの曲の演奏を試聴した。何人かのピアニストの演奏を聴いていく中で当然ながら自分的にしっくりくるものもあれば好きになれないものもあったり・・・・・・・・・。譜面は何種類も存在するはずだが、あるピアニストの演奏なんかは、音程が違っていたりなんかする。おそらくピアニストによって音程を独自に捉えているから違和感を感じるのだろう。つまりその人の中では「主よ、人の望みの喜びよ」の旋律がそう聴こえているのだろう。そうして何人かのピアニストを聴いている中で清塚信也、この人の演奏が一番しっくりきたのだ。実はこの人、この時に名前を知るまでどんな人か知らなかったのだ。この時は、何だか固いイメージのある地味なクラシック畑のおやじピアニストだと思っていた。その後、youtubeでこの人の色んな動画を見て、笑いも取る漫談ピアニストであることを知ったのだ。

 

★「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ/バッハ/前田健治/ヴィルヘルム・ケンプ編曲 『クラシック入門 BEST50 Vol.1』」(MP3音源)

 

 

このピアニストのことはいまだよく知らない。ただ何となくこの曲のピアノバージョンを聴きたくてピックアップしただけである。この曲は「コラル」と呼ばれるもので、ひとつの讃美歌といっていいだろう。そんな歌ものでありながら、歌なしのオルガン曲としての方が有名な曲で、歌では本来伴奏である部分が主旋律になっており、歌の部分が下声になっているという奇妙な足跡がある曲である。この曲をピアノで聴くと、いまだバッハの曲をピアノで演奏することに対し多くの議論を呼ぶのもわかる気がする。というかバッハの曲にもピアノが合う曲と合わない曲があるようだ。この曲の場合は、どちらかというと合わない曲ということになってしまう。バッハの曲がピアノで弾かれ始めたことに関しては、「ピアノの時代なのだからバッハの曲もピアノで弾こう!偉大なるバッハの曲なのだから合わない楽器はない」というノリだったのだろうが(笑)、ピアノで弾いたらどんな感じになるだろう?といった興味本位の域を出ておらず、やはりオルガンで弾くのが本来の曲だけど、気分転換に真新しいものを聴きたいといった時に聴くに過ぎないという感じがする(勿論、ピアノが合う曲もあるのだが)。

 

★「ピアノソナタ第8番ハ短調作品13『悲愴』より第2楽章/ベートーベン/前田健治  『誰もが聴きたいクラシック BEST50!』(MP3音源)

 

 

上のモーツァルトのところで書いたベートーベンへのボロクソの典型がこの曲である。ベートーベンといえばこの曲と言えるくらいあまりにも有名な曲である。で、この曲の例の転回部分が問題なのである。主旋律部から短調となってこの曲の場面はガラリと変わるのだが、曲のつながりや起承転結を考えず別の曲を持ってきて足しただけという印象なのだ。転回が唐突過ぎて不自然に聴こえる。何が言いたいか?そう、私はベートーベンの音楽が好きじゃないのだ。「第九」だの、「エリーゼのために」だの、「運命」だの、この「悲愴」だの、ベートーベンの曲は非常にわかりやすい。曲がドラマチックでオーバーで激情的だ。そういう意味では「インパクトこそすべて」といった音楽で、彼自身、曲にインパクトや主張がなければ人にアピールできないといったことをよくよく心得ていた作曲家だったに違いない。しかしながら彼自身のドラマは私には些か合わない。彼の音楽の❝わかりやすさ❞は、おおよそ知的、思考的なものとは言えず、いってみれば何も考えず派手に盛り上がろう的な音楽なのだ。はっきりいえば稚拙なのだ。だから毎年毎年、大みそかは意味不明に第九なのだ(笑)。

 

★「8つの演奏会用エチュード/ニコライカプースチン」

 

 

もはやジャズとかクラシックとかジャンルに当てはめて語るものではないのだろう。チャイコフスキーに、ムソルグスキー、ストラビンスキー、ラフマニノフ、そして唐突にロシア国歌・・・・・・・・etc.。カプースチン、彼もまたもうひとつのおそるべきロシアの作曲家である。しかしこの音楽、どんな時に聴くものなんだろう?

 

 

 

 

 

 

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