仮に時間を止めれる特殊能力を持ってる人がいるとして、その人が時間を止めてる間は周りの物や人や空気さえ止まる。

 しかし特殊能力者は時間が止まってる時も動けるって事はその人の血の循環や細胞分裂も同様止まらない。てことは、世界が止まってる分にその人は一人勝手に老いていくことになる。特殊能力者は人より早く老いる代わりに時を止めてまでする事は結局は悪事なのかどうなのか?逆に時を止めて救った命は本来より伸びる。その代わり時を止めた人の命は本来より縮む。なんか複雑でよくできたシステムだと思う。


なんか自分を犠牲にしてまでも人を助けるミニドラマだれか作ってくれないかなー。

怒鳴り声がするレジの方へと行ってみると60代ぐらいの男性がレジにいる女性店員に怒鳴っていた。何が起きているのだ、そう思いながら耳を傾けているとおそらくレジで接客する店員が誤って釣銭を間違ってその男性に渡してしまったらしい。たぶん気が短い男性は憤慨し本来の過ち以外にもクレームをつけ始めた。

「ここの接客は本当最悪だな。お前もパッとしないし地味な感じで・・・。もう本読む気分しないよ。この本返すから早く金返せよ。早くしろよ、早く。」

レジの女性店員は少し小刻みに震えていた。その女性の胸のプレートを見ると研修中という文字が目に入る。すると今さっき本を探してくれた男性店員が走ってきて男性客に謝った。

「すいませんでした。こちらはまだ入ったばかりで私の教育不足です」

男性客も第三者の人が介入すると同時に冷静になり、本を返品してお金を受け取りその場をズカズカと重い足取りで帰って行った。そのあと私は本を購入して電車のホーム方面へと向かった。短期間の出来事だったがいろんな思いが私の中へと生まれた。もしあの男性客が私同様に筆談でしか意思疎通が出来なくてもあそこまで酷くクレームを付けただろうか。筆談は確かに声でのコミュニケーションよりかは時間もかかるし通じないとイライラする。しかし、筆談だって素晴らしいコミュニケーションツールだ。私はそう思う・・・。



 現代の人間は口から発せられる言葉でコミュニケーションを図る人が大多数である。それが目の前に人がいてその人と意思疎通をする場合は筆談じゃなく声を使い対談するだろう。断然そちらの方が楽だし早い。思ったことは直ぐ声にして相手に伝えられる便利なコミュニケーションツール。しかし、その便利で身近なツールは私たちにとっては当たり前すぎて意識せずに駆使してしまっている。無意識のまま人間は言葉を声にして表している。それが卑猥で劣弱で人を傷つける言葉でも。少なくても私はそうでした。親に対してや友達に対しても。冗談でもやっぱり卑猥で劣弱で人を傷つける言葉は発しちゃダメだな。それよりかはもっと綺麗な言葉を使いたいな。そう思いました。筆談をしている時は汚い言葉を一度も書かなかった。いや、むしろ書きたくなかった。相手にどんな風に伝わるんだろうと考えながら筆談をしていた。だからこそ少しでも相手が嬉しくなるや楽しくなるような言葉を使った。声というツールは便利だからこそ生まれる無意識の言葉は本当に無意味な気がした。筆談の時のように相手が受け取る感情をいつも意識しながら声を使う義務が私たちにはある気がした。疑似体験をして私はそう思うようになりました。




もしも今後、私が生きている中で失声症の人にであったらその人といろんな会話をしたいです。そしてその会話の中でもっと失声症の事を知っていきたいと同時にその人を笑顔にしたいです。+α今後の生活の中での声を使うときはしっかりと意識して駆使していきたいです。




築島でした。


それでも授業は刻々と進んでいく。いつも通りにボーとしながら何かを考えては目の前の問題を解く。そして間違いを直す。授業はいつも通り進んでいき、終了を告げる鐘が鳴った。私はその後、友達数名にバイバイのジェスチャーをして教室を後にした。授業中やそれ以外でたまに筆談をするだけでも何だか疲れが溜まっていた。きっと不慣れなことを急にしたからだろう、私はそう思いながらバスに乗り込んだ。

 空はすでに日中の輝きを暗闇へと奪われ真っ黒に染まっていた。筆談だからやっぱりコミュニケーションはスムーズにはいかず多少のストレスが溜まる実感がある。でもその中でも意思疎通が行われると嬉しくなったりする。私たちが日々昼夜にしてる意思疎通がこんなにも単重で、でもその単重はいろんな複雑から造り上げられてると思うと何だか可笑しく思えた。と同時に大切さの大きさも知れた気がした。バスは多摩センターへと停車し、私は降りた。(あっ、そうだ。本屋で買いたいのあったんだ)。そのまま丸善(本屋)へと向かった。

 そこの本屋は地域最大級の約1200坪の売地で70万冊もの本を取り揃えている。こんな広い本屋でお探しの本を素早く発見する方法はやはり店員に聞くことだろう。そう察した私は店員に「本の題名とこの本はドコにありますか?」と書いてあるノートを見せることにした。しかし、歩き回る店員を止めるのは意外と難しいものだ。いつもなら店員を見かけたら「すいません」と一言添えて言えば大抵は捕まえられるのだが今はそれができない。仕方なく店員の方でも叩きに行くか。そう思って歩き回る店員のもとへと小走りに向かった。ノートを見せると店員は即座に私の探してる本を探してくれた。

「あっ、これですね。お探しの本は」店員がそう言う。

(そうです)と二回ほど私は頷いた。そしてあることを思い出しペン先を紙の上に乗せた。

「ありがとうございます!!」と書いたノートを見せた。店員は小さく微笑みその場を去って行った。感謝の言葉を文字にするって何だか普段何気なく口にする感謝の言葉よりも深みがあってイイものだな。私はそのままレジへと直行。すると怒鳴り声が聞こえた。それは今向かい途中のレジの方からだ。

(何が起きたの?)少し不安の気持ちのままレジの方へと向かった。そしてそこには壮絶な光景が私を待っていたのでした。


失声症で過ごした日々③に続く

こんにちは。私は以前にある映画と出会いました。その映画は声を失ったヒロインが自分の食堂を持ち、いろんな人と心を触れ合い、成長していく姿を描いてます。声を失った...。それだけを聞いてイマイチ分らない方もいると思います。簡潔に言いますと声を失う=病気です。これは、失声症という病気です。




まず、失声症という病気について説明したいと思います。

→主としてストレスや心的外傷などによる心因性の原因から、声を発することができなくなった状態。(wikipediaより)

同じ失声症でもまったく声が出ない人やかすれ声になる人や声質が変わるなど人によって症状が変わります。この失声症というモノを認知している人は近年ではまだ少ないといわれてます。大多数の人は一週間程度で治る方もいます。しかし、一か月や半年。数年経ってから治る人もいるのが現状です。




説明はここまでしときます。私は映画を観てる時に「実際に失声症になったらどんな気持ちになるんだろう。筆談で人とコミュニケーションをすることで何か気づくことはあるのかな?」という想いを持ち、今回疑似体験をすることに決めました。(この疑似体験を書くことは失声症を嘲笑う意図でやっている訳ではありません。むしろ今後そのような人に出会った時に少しでも気持ちを理解したくて実行しました



体験談

 私はペンとノートを握りしめスクールバスの中で揺られていた。日々の過度のストレスと友人の裏切りにより失声症になってしまった私(設定上の話です)は、ボーっと窓越しから空を見ながら時間を過ごした。そしてバスは大学に着き、私は下車した。私が降りたと同時に次々と乗り込む大学生はほとんどが笑顔だった。トボトボと歩いてると(お腹空いたな~)と自然にその思いが浮かび、コンビニへ直行。何を買おうか流し目で商品を見ながら歩いてると肉まんの匂いが鼻へと届いた。(肉まん食べたいなー。よし、肉まんを買おう)と思いレジに行こうとした。(っあ、でも喋れないんだ)と思い出し、持っていた紙にペンを走らせた。「肉まん1つ下さい」とそう書き、若い男性店員に見せた。若い男性店員は直ぐに状況を把握したのか「肉まん1つですね」と言い、肉まんを取りに行ってくれた。少し驚いた表情したけど笑顔を見せながらレジ接客をしてくれる。何か少し嬉しい気分になった。肉まんを食べながら私は授業へと向かった。

 教室に着くと既に数名の生徒が席に座り友達と話してる。私も定位置に座り、上の空で時を過ごしてると隣に座る男子が話しかけてきた。「桐島、部活やめるってよって面白い?」。急な事だったけど頷くジェスチャーをした。その後も話しかけてくるから笑って頷いてると、「何で喋らないの?」と問いかけられた。(やっぱり、気づかれてしまったか。仕方ない)と思いながらノートを見せた。「ある事情で今は声を出す事が出来ません」と書いてあるノートを見た友達は、「あー、カラオケね。で喉を潰しちゃったのね()」と囁いた。(やっぱり失声症って思はないか。認知されてないんだなー)と思いながらその事実を誤魔化すかのように苦笑いして頷く私がそこにはいた・・・。


失声症で過ごした日々②に続く


そもそも海馬という小さな器官の役割は、大脳に入ってきた情報を取捨選択し、記憶全体をつかさどるという重役である。海馬は、パソコンでいえば一時的なメモリーの役割。そして必要があれば、パソコンを終了する前にデータを保存するのと同じように、海馬もデータを大脳皮質に送って長期記憶として保存します。大脳皮質に長期記憶されたメモリーを呼び出すことが、思い出すという作業です。




そして近年の脳科学の研究によりその海馬と扁桃体がお互い影響し合っていることがわかりました。


扁桃体は、快・不快を区別する機能がありさらにその感情を海馬に伝えるのです。そのため、心を大きく揺さぶる出来事はいつまでも記憶として留められるわけです。→長期記憶になる。


図で表すとこんな感じのシステムになっています。(画像の大きさの影響により二分化しました)

photo:01


photo:02







つまり、扁桃体に快(好き)という感情が受信された時の方が海馬に記憶として送信されやすくなります。だから好きなことはすぐに覚えられ、嫌いや興味ないことは覚えにくいのです。しかし、命に関わる大きな不快(ショック)を体験してしまうとむしろ強く記憶に刻まれます。すなわちPTSD(心的外傷後ストレス障害)等になってしまう原因です。なので扁桃体をストレスに強くするための鍛え方を何個か挙げてみました。


・自然を感じ、空を見る


・感情を吐き出す


・鏡を見て笑う


・タンパク質を摂る


などがあります。ぜひ簡単なことなので試してみてください。




いずれにしても脳は人から言われて従うよりも、自発的に働くほうがはるかに能力を発揮します。己の本当の心を知り、脳を喜ばせることこそ、脳力開発の第一歩です。まだまだ脳科学のありとあらゆる研究は膨大にあります。今後の研究者の研究結果が楽しみです。

「なぜ恐怖をかんじるか」というテーマは今回で終わりにしたいと思います。次回の新たな疑問テーマ楽しみにしてて貰えると幸いです。ここまで読んで頂きありがとうございました。

築島。