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普通に戻るための記録

摂食障害。2015年出産。
どうしようもないクズだけど普通にもどりたい。

といっても、娘はまだ抱っこ紐の中にいるだけだから、
実際私の買い物に付き合わせているだけな気がする。

今日は朝起きて、娘と遊びながら1R。
寝かしつけながら一緒に一時間ぐらい寝た。
だるかったけれど、クリニックの場所も下見したかったし、
なんとか気合いを入れて出てきた。

今もちょっと気持ち悪い。
低血圧がひどいってのもある。
今日は87/50とかだった。
過食嘔吐。
やめたいのかと訊かれたら、当然やめたいに決まっている。
お金もかかる。
時間もなくなる。
体力もなくなる。
なにより、人間としておかしくなる。
嘘つきになって、誰かを欺いて、
餓鬼のように食べて、隠れて吐いて。
トイレを詰まらせるリスクもつきものだし、
袋吐きはいつも大量の生ゴミが出るし。
何より娘には見せたくない。
そんなこと嫌に決まっている。

けれど、そこにある快楽もわかっている。
好きなものを、カロリーを忘れて食べられる。
そして、それを一気に吐けたときの快感。
それでも太らないでいられる、ということ。
食べているときは無心でいられる。
食べることは娯楽だ。
吐きさえしなければ、幸せなことだ。
お金があって、時間もあって、子どももいなくて、
自分だけの生活だったならば、やめようとは思わなかったろう。

やめないで済むなら、やめたくない自分もいる。
ぬるま湯のような、偽物の快楽に浸かっていられたら、どんなに良いだろう。

過食嘔吐は、
「やりたいからやってるんでしょ」
「やめたいとか言っても、本当は好きでやってるんでしょ」
「やめられないなんて甘え」
という意見はちょくちょく耳にするけど、確かにね、と思う。
少なくとも、私はそこに甘んじてしまっている人間だ。

でも実際は、なくなるお金や睡眠不足、
そして最大のストレスである自己嫌悪で、もうやめたくて仕方ない。

だから、どちらの気持ちも正しい。
やめたいし、やめたくない。
やめなきゃいけないのに、やめられない。
壊れたストッパーを、直すこともできない。
私は、私自身がわからない。

ただ、ほんとに、過食嘔吐は同情されるようなものではない。
結果的に苦しんでいるとしても、
そこに至るまでのプロセスは「自業自得」としか言えないから。
「どうせ吐くならたくさん食べよう」と、
安直な行動をし始めたのは自分。
食べたいけど太りたくない、という、贅の極み。
かわいそうなんて思われる資格はない。
摂食障害、であることは間違いない。
でも、それ以外のことはわからない。

リストカットだの、自殺未遂だの、ODだのやってきたけど、
それらは今は収まっている。
ただ、自殺未遂だけはわからない。
強烈な希死念慮だけはずっと消えなくて、
それがいつか自分を引っ張ってゆくような気がしてならない。

職場で、躁鬱のひとの話になったとき、
世の中の躁鬱に対するイメージがなんとなくわかった。
というか、メンタルが弱い人に対して、世の中は案外ドライだ。
表向きは理解があるような優しさを見せても、
本当のところは違う、というのは、世の常だろう。
当然のことだ。

私はそんな素振りも見せずに仕事をしている。
おかしなところなんて見せない。
病んだところなんて見せない。
張り裂けそうになったとしても、きっと見せることはない。
なぜなら、仕事は私の居場所だから。
自分の存在価値を証明する場だから。
そこにいても許される場所。
そこで働き、対価を得る、という、とてもわかりやすい「証明」。

私がどんな「ビョーキ」かはわからない。
病名がほしいようなメンヘラだったら、とっくに通院してる。
むかし、母にいつも「私は苦労して子育てをしている」アピールをされていた。
私は大変なのよ、苦労してあんたを育ててるのよ、というアピール。
そのたびに私は、「産んだのは自分だ、
産んだら育てるのは親の義務だ」
「親は全てを犠牲にして然るべき」ということを思っていた。
前半の言葉は、本人にも言った気がする。
後半の言葉は、言っていないけれど、自分ではずっと、
「親とはこうあるべき」という戒めとして、心にあった。

それがあったから、私は子どもを作ることに躊躇いがあった。
結婚が人生の墓場なのではなく、
出産こそが人生の墓場であると思っていた。
子どもを産んだら、自分の全てを犠牲にしなければならない。
かつてそう思っていた分、自分が体現しなくてはと思っていた。
今でもそう思う。
夫は、「若い頃の自分に縛られることはない」と言ってくれるけれど。

ただ、子どもには、「あなたのために全てを犠牲にした」とは言いたくない。
それをしたら、母と同じになってしまうから。

育児を楽しめたらいいのに。
忍耐ばかりに感じてしまう。
日々の成長は楽しいし、幸せだけれど、手放しではない。
それがつらい。
最悪だった。

金曜日の夜は、また娘がなかなか寝てくれなかった。
泣いてぐずって、腕を振り回して、殴られたり髪を掴まれたり。
脚もジタバタするから、トントンしようとしても蹴られまくり。
途中で「いってーな」と舌打ちしてしまった。
そんな自分がすごく嫌で、布団に仰向けになってじっと耐えた。
落ち着け、イライラしちゃいけない、と何度も言い聞かせた。
一時間ぐらいで寝かしつけたけれど、本当につらかった。

子どもと接するのが辛くて、そばにいることすら苦痛だった。
この感情がずっと続いたらネグレクトになるんじゃないかと怖かった。
夫には、そんな気持ちも話した。
接するのが憂鬱になってしまうこと。
責任感とか義務感でお世話をしていること。
自分が、本当に娘を好きなのかわからないこと。
舌打ちしてしまったこと。

夫は、ひとつひとつに、きちんと答えてくれた。
責任感や義務感は、根本的に必要なものだからいいんじゃないか。
娘のことを可愛いとか大切と思うなら、
「本当に好きかどうか」なんて深く考えなくてもいいんじゃないか。
きみが育児放棄したら、そのときはそのときで考える。
きみの心の傷が癒えるのを待つ。
舌打ちぐらいなんてことない。手をあげたなら問題だけど。
そんなことを言ってくれた。

育児放棄してしまっても、それでもまだ別れないのかと聞いたら、
それが別れる理由にはならないと言っていた。

私は、自分の存在価値を守るために、
過剰なまでに「義務感、責任感」を持ってしまう。
自分がすべきこと、こうあるべきこと、というのが大事で、
それらをしなかったら自分の価値がなくなると思うと必死になる。
過食嘔吐を患っていてもお世話をするのは、そのせいだ。
それから、罪滅ぼし。
ごめんね、ごめんね、と思いながら、全力で娘に接する。

たまに、ギャンブル依存、アルコール依存なんかで育児放棄、
というようなことがあるけれど、私だって食への依存という意味では同じで、
親としての責務を果たしているかどうかの違いぐらいしかないと思う。
そうなってもおかしくない場所に立っている。
それがすごく怖い。
生きたまま育児放棄をしてしまうなら、死んでしまったほうがまだいい。
自殺だって、育児放棄なんだろうけれど。

昨日の昼間から今日にかけては、だいぶ落ち着いた。
娘と接することが苦痛ではない。
いつまでもあんなだったらどうしようかと思った。
しばらくらこのままでいたい。