※本作品は実話からヒントを得て創作したフィクションです。登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
■SideA:布施智也
昼下がりの休憩室。蛍光灯の白い光がテーブルに落ち、静まり返った空間にコーヒーの香りが漂っていた。後輩の村上が休憩室の自販機でコーヒーを買うのを待ちながら、俺はスマホを取り出してニュース動画を開いた。画面の中には、思わず息を呑むような見出しが躍っている。
市内で発生した残忍な殺人事件。動画では、近所の主婦が震える声でインタビューに応じていた。
「とても大人しい人でしたよ。まさか、あの人が…」
その瞬間、心臓の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚が走った。おとなしい人が突然牙をむく――。ありふれたニュースなのに背筋が寒くなった。先日の遠山の姿が脳裏をかすめたからだ。
いつものように穏やかに話していた遠山が、突然、何の前触れもなくテーブルをバンッと叩き、声を荒げた――その場にいた誰もが押し黙ったのは、何が彼を激高させたのか、その理由がわからなかったからだ。
あのときの驚きが、ニュースで見た残忍な事件に重なった。人の心の奥に潜むものは、誰にもわからない――その冷たいリアリティが、いつも以上に胸に突き刺さる。
「何を見てるんですか?」
村上が、紙コップのコーヒーをこぼさないようにそっとテーブルに置きながら言った。
「ああ、これだよ」
俺は、スマホを差し出し、ニュース動画を村上に見せた。
「このあいだの遠山のことを思い出してな」
「え?」
「あいつ、普段はおとなしいのに、突然、テーブルを叩いて怒鳴っただろ。あれを見たとき、このニュース映像に出てくる近所の人と同じことを思ったんだ。『いつも穏やかな人間がまさか…』って」
村上は黙ってカップのふちを指でなぞっている。先輩である遠山のことを悪くは言えないだろうから仕方ない。しかし、あのとき、こいつも俺と同じように戸惑っていた。
二重人格?…そんな、映画や小説の中でしか出逢わないような言葉が思い浮かぶ。
俺は熱いコーヒーを一口すすった。苦みが口の中に広がっていく。誰も他人の心の奥なんて覗けない。どんな闇が潜んでいて、いつ爆発するのかもわからない。そう思うと、背筋が冷たくなる。
「突然キレる人間ってのは怖いよなぁ…」
俺はモヤモヤした気分を振り払うように、窓の外に広がる空を見上げた。
■SideB:村上健太
カップのふちをなぞりながら、俺は苦笑を噛み殺していた。
突然キレる…?
この人には、そう見えていたのか。
布施さんと同期の遠山さんは、本当に穏やかで優しい人だ。けれど、布施さんは普段から人の気持ちに鈍感で、小さなことでも、相手の気持ちや立場をまったく想像せずに言葉を放つ。
遠山さんは、そういう態度に我慢しながら、いつでもその場の空気を乱さないよう、布施さんを穏やかになだめていた。 そんな遠山さんが、後輩たちから慕われ、信頼されていることは言うまでもない。
だから、あの日、遠山さんが、相変わらず無神経な言葉を重ねる布施さんに堪忍袋の緒を切らし、声を荒げたのを見て誰も驚きはしなかった。第一、あれは我ら後輩たちへの横暴な態度を見るに見かねて怒ってくれたのだ。立場上、俺たちは黙っているしかなかったが、心の中では感謝と尊敬の拍手を送っていた。
それを見た布施さんは、遠山さんが“突然キレた”と思っていたのか。
近ごろ、俺たちの部署では、大きな人事異動の噂が飛び交っている。地獄耳の同僚が仕入れてきた話によれば、次期課長は遠山さんに内定しているらしい。その話に誰もが頷いた。
当然だろう。「問題は、布施さんがどんな態度をとるかだな」――そう言いかけた俺たちの気持ちを察した同僚が、にやりと笑って続けた。
「あの人は下請け会社に出向らしいよ」
まだ何も知らずにコーヒーをすする布施さんは、窓の外を眺めながら独り言のように呟いている。
――突然キレる人間ってのは怖いよなぁ。
俺はカップを傾け、密かに苦い笑いを噛み殺した。
*毎週金曜21:00更新
