※本作品はフィクションです。登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
■SideA:黒田智昭
年の瀬の土曜。吐く息が白く立ちのぼり、北風が頬を刺す。仕事納めを終えたばかりの俺は、帽子のつばを押さえながら府中競馬場のゲートをくぐった。スタンドの向こうには、冬の陽射しを受けて淡く光る青空が広がっている。
一緒に来たのは営業部の新人、逸見悟志。来月から長野支社への転勤が決まっている。餞別は何がいいかと訊いたら「競馬を教えてください!」と言う。酒の席で俺が武勇伝を語ったせいか。競馬歴15年。もはや競馬は、俺にとって人生の糧のようなものだ。
改札を抜けると、あの匂いが一気に押し寄せてくる。焼き鳥の煙、熱燗の湯気、馬糞と芝の混じった独特の匂い。人々のざわめきは、年末のボーナスを賭ける熱気で膨れ上がっていた。
「すごいですね、この活気……!」
新調したダウンに身を包んだ逸見が、目を輝かせている。普段はおとなしい男だが、今日はすっかり子供のようだ。いつもは独りで来る俺も、“弟子”を連れているせいか、気分が高揚する。
スタンドの風で手帳のページがめくれた。そのとき、俺は前から決めていたことを、今日ここで言おうと思った。
「悟志。来年から俺は――大穴は狙わない」
「え? どういうことですか?」
俺は手袋を外し、手帳に書き込んだ馬柱を指でなぞりながら言った。
「大穴を狙うのは姑息な生き方だ。少しの金で、あわよくば一発逆転…なんて、ズルいと思わんか。競馬は人生と同じだ。俺は真正面から勝負したい」
「真正面…というと?」
「これからは本命に張る」
「は?それって、いちばん普通のやり方じゃ…?」
「わかってねえな。問題は“どこまで大きく賭けられるか”だ。確率が高いといっても、賭け事に絶対はない。その不確実さに、どこまで金を置けるか。五万か?十万か?それとも五十万か? これはヒリヒリするような自分自身との闘いなんだよ」
ゴール前の芝をかすめる風に乗って、パドックの実況が響く。蹄鉄の音、地鳴りのような歓声。俺の胸も高鳴っていた。
「…で、今日は、いくら賭けるんですか?」
逸見が息を呑む。
「まあ、今日はオマエの入門日だからな。競馬のいろはを教えることが先決だ。ごく普通の額にしておくが、年が明けてからは少しずつ上げていく。どこまでいけるか。そこからが本当の勝負だ」
「いろいろと勉強になります!」
逸見は真剣な顔で頷いた。俺も気を引き締めて、蹄の音を待つコースを見据えた。冷たい風が吹き抜けていく。スタンドを照らす冬の陽射しが、やけに眩しかった。
■SideB:逸見悟志
長野に転勤して、もうすぐ一年。木造の事務所は底冷えするが、休日の楽しみができた。冬の松本競馬場――小規模ながら、雪をかぶった北アルプスを背にした光景は格別だ。
府中で黒田先輩と並んで見た昨年末のレースを、僕はいまでも思い出す。あの日の先輩の言葉は、単なるギャンブルの心得ではなく、人生訓のように胸に響いた。
――大穴を狙うのは姑息な生き方だ。
――本命にいくらまで賭けられるか、それが本当の勝負だ。
僕はいまだ小心者で、せいぜい千円、二千円を賭けるのが精一杯。それでも新聞を片手にゴール板を凝視する時間は、退屈な休日を塗り替えてくれる。そして、リフレッシュして翌日の仕事に励む。豪快に生きろ――そう自分を励まし、職場でも少し大胆に提案できるようになった。
――大穴は狙わない
先輩は今、どのくらいの額を本命に賭けているんだろう。きっとヒリヒリするような勝負を続けているに違いない。僕はギャンブルではそこまでできないが、人生の先輩として、黒田さんの豪快な生き方を見習わなければ、と思っている。
……そう思っていた矢先、意外なところで先輩の名前を見かけた。同僚のブログに「黒田さんと競馬に行きました」という話題が書かれていたのだ。
――すごく頼もしい先輩です。
とても感激した様子で、いろいろなことを教えてもらったと綴られている。黒田さんは今も、競馬を通じて人生の歩み方を指導しているようだ。
やっぱり、先輩はしっかりと地に足をつけて、勝負を続けているんだな――そう思いながら、画面をスクロールしていた僕の指が、ブログの最後に添えられた写真で止まった。
そこには、大穴を当てて、にっこり笑いながらピースサインをしている先輩の姿があった。
*毎週金曜21:00更新
