※本作品はフィクションです。登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
Side A:松岡啓太郎
今日は、妻の佳代の命日だった。墓前に花を供え、線香を立てると、墓石の上を冷たい風が撫でていった。秋も深まり、空気にはほんのりと金木犀の残り香が混じっている。
「もう五年か」
墓石に向かってつぶやくと、隣で長男の翔一が黙ってうなずいた。翔一は10年前に家を出て、今は東京で働いている。忙しそうにしているが、今日はわざわざ休みをとって帰ってきた。「せっかくだから、茶でも飲んでく」と言って、二人で家に戻ることにした。
いつものように台所で湯を沸かす。一人暮らしにもすっかり慣れた。やがて、やかんの水が沸騰し、ピー!っという音が鳴り始める。自然にあの頃の空気が戻ってくる。
「この音を聞くたび、母さんとの口喧嘩を思い出すよ。いつも、ちょっとしたことで言い合いになって、俺がむきになりかけると、このやかんがピー!って鳴るんだ」
笛の勢いに気おされ、思わず言葉を飲み込む。佳代は慌てて火を止め、俺はため息をついて……気づけば二人で湯飲みを手にしていた。
「この音が鳴るのが、絶妙なタイミングで…」
それは、レフェリーが吹く笛のように響き、まるで、やかんが俺たちの様子を見ていたかのようだった。長年使った道具には、人の気配が染みつくようにも思える。やかんが夫婦喧嘩の仲裁役をしてくれていたってことだ。
古いやかんは、今も現役だ。確か“ピーピーケトル”とかいう呼び名だったか。底には少し焦げがあるが、取っ手の黒ずみも悪くない。沸騰すると笛が鳴る――この単純な仕掛けを考えた人は、家庭の小さな平和を守る天才だったようにさえ思える。キッチンに鳴り響くピーピーケトルの音は、我が家の日常に欠かせないBGMのひとつだった。
急須に湯を注ぐと、茶の香りが静かに部屋を満たし、元気だった頃の妻の笑い声が聞こえたような気がした。
Side B:松岡翔一
「この音が鳴るのが、絶妙なタイミングで…」
感心したように古いやかんを眺める親父の姿が可笑しくて、俺はつい笑ってしまった。
子どもの頃、俺は気づいていた。親父がブツブツ言い始めると、母がそっとコンロに手を伸ばす。そして、親父の小言がヒートアップして“沸騰”するまで――その間を見極めて母は点火するのだ。
だから、いつも、ちょうどいい頃合いに湯が沸き、笛が鳴る。そして喧嘩は直前で回避され、家の空気がふっとやわらぐ。親父の性格を誰よりもわかっていたおふくろだからこそできたことだ。それが夫婦というものか――そう、今になって思う。
「確かに…絶妙なタイミングだったよね」
俺が笑うと、親父も穏やかにうなずいた。
「なあ、本当に。単純だが、よくできた仕組みだよな」
親父は、感心したような面持ちでやかんを眺め、美味しそうに茶をすすっている。そんな姿を、
仏壇の中から、母が笑って見ているような気がした。
*毎週金曜21:00更新
