※本作品はフィクションです。登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
Side A:萩尾茉莉
子育てに追われる毎日は、同じ坂道を何度も登るマラソンのようだ。吐く息が白くなり始めたこの頃、慌ただしく弁当を詰め、洗濯機を回しながら、頭の片隅で買い物リストを組み立てる。あれこれと動き回っているうちに、落ち葉が舞うように時が過ぎていく。
今日は久しぶりに会社員時代の同僚、保奈美とカフェでお茶をした。白いカップから立ちのぼる湯気と、窓の外で枝を裸にしつつある街路樹。そんな光景を眺めながら、ようやく一息つけた気がした。
こんな時間も、たまには悪くない。保奈美と並んでお茶をしていると、つい顔がほころぶ。でも今は、家に帰るとまったく違う世界が待っている。彼女と世間話をしていても、思い浮かべるのは、やっぱり子どもとの日常だ。ケーキを頬張りながらも、私は子どもの小さな手を思い出している。
「うちの子、最近甘いものばかり欲しがって……」
甘いものを前に目を輝かせる姿が、目の前にちらつく。
「寝る前はチョコレートを食べちゃだめ、って口を酸っぱくして言ってるの。でも、三日前の夜、歯磨きが終わって布団に入ったはずの息子が、わざわざリビングまで来て、真剣な顔で私の前に立ってね、いきなり言ったのよ」
私は両手を小さく広げて、彼の仕草を真似してみせた。
『僕、チョコなんか、食べてないからね!』
保奈美が吹き出し、私も思い出し笑いをしながら肩をすくめる。
「隠してるつもりなんだろうけど、わざわざ自分から言いにくるなんて、ほんとにわかりやすいわよね」
保奈美は「可愛いね」と笑い、ふっと黙り込んだ。その横顔を見ながら、私はつい家庭の話ばかりしている自分に気づく。かつて同僚として並んでいた頃とは、まったく違う会話。今も独身で仕事に打ち込む彼女が、少し眩しく見えた。
今の私は、保奈美の目に、どんな風に映っているだろう。今の生活に不満があるわけではないけれど、いつの間にか生きる世界が狭くなっている気もする。テーブルに置かれたカップの湯気が二人の間でゆらゆらと揺れているのを、私はぼんやりと見つめた。
Side B:平野保奈美
カフェを出ると、冷気を含んだ風が頬を撫でた。久しぶりに会った茉莉は、すっかり一人前のママになっていた。楽しい時間を過ごせたけれど、なんだか彼女との距離ができてしまったような、少し寂しい気もする。
彼女と別れ、駅への道を歩く間、私は何故か「チョコなんか食べてないよ」と言った子供の言葉を、心の中で反芻していた。そういえば、私も子どもの頃、母に隠しごとをして、似たようなことを口走った覚えがある。
——隠してるつもりなんだろうけど
確かに、そういう気持ちもあっただろうと思う。ただ…思い返してみると、単なる嘘でもなかった気がする。母の言いつけを破ってしまった罪悪感が胸の中で大きく膨らんで、苦しくなって、いっそ言葉にしてしまいたかったのかもしれない。
母に告げた言葉は正直ではなかった。でも、問い詰められたわけでもないのに、自分から声を出すことは、子どもなりの勇気だったと思う。
信号待ちの交差点で足を止める。
今の私には、そんな勇気があるだろうか。大人になった私は、あの頃よりもずっと臆病だ。慌ただしく仕事に追われる日々の中で、後悔も、悔しさも、罪悪感も、すべて胸の奥に押し込めたまま、何も言わずにやり過ごしている。茉莉が少し眩しく見えたのは、そんな思いがこみ上げたからだ。
冷たい風が髪を揺らす。私は寒々と澄んだ晩秋の空を見上げ、小さくつぶやいた。
——チョコなんか、食べてないからね
答えのない思いが胸の奥で波紋のように広がった。
横断歩道を渡るとき、一瞬、子どもの頃の自分が反対側へ駆けていくのを見た気がした。思わず振り向いたが、あたりには誰もおらず、落ち葉が風に舞っているだけだった。
我に返り、静かに息を吸い込むと、点滅し始めた信号に急かされるように、私は駅への道を再び歩き出した。
*毎週金曜21:00更新
