これは、第一次世界大戦に海運業で財を成した
「田中隆」という人のお屋敷にある西洋館跡の
写真です。
田中隆は、長崎県生まれ。
商船学校機械科を卒業して、三井物産に入社します。
その後商売を始め、東洋製氷株式会社や田隆汽船
合資会社などを創業。商売は大成功を治めます。
田中は、三井物産門司支店長だった犬塚信太郎に
紹介され、清朝を倒して辛亥革命を起こした革命
家・孫文に支援金を贈りました。
300万円、今のお金で数億の大金です。
また資金以外に、自ら所有の船舶などを利用して
弾薬運びまでも手伝ったそうです。
孫文は、大正7年(1918)6月、第三次革命に
敗れて、広東から上海に向かう途中、下関に立
ち寄りました。
そこで、彼は田中に会って長年の恩義を深謝し、
自書の「至誠感神」「天下為公」の2本の軸と
「蓮の実4個」を謝意の印として贈りました。
蓮は中国においては、君子の表象として尊ばれ、
その蓮の実を贈るという習慣は、清き君子の交
わりを結ぶ印でありました。
*参考資料:蓮の実会趣意書より
大正7年とは、まさに田中が西洋館の建設に着手した年でした。
ありし日の西洋館です。
アレクサンダー・ネルソン・ハンセルという
明治から大正にかけて滞日、活躍したイギリス人
建築家の設計でした。
神戸にある重要文化財の旧ハッサム邸や関西学院
チャペルなど多くの作品を残していますが、
彼は田中隆のリクエストを受け入れて存分に
腕を奮ったと思われます。
地下1階、地上2階、延べ床面積210坪の豪華な
西洋館をデザインしました。
しかし、大正中頃、恐慌による経営悪化で
内装工事を残したまま中断。新築のまま廃屋と
なってしまったのです。
未完の西洋館に思いを残しながら、ハンセルは
新天地を求めて、大正8年に日本を離れます。
西洋館は建物の朽廃が著しく、やむなく昭和55年
(1980)に解体しました。
今では、ゴシック風のアーチや、瀟洒なテラス
など一階の壁面及び床面部分を残して保存されて
います。
今でも金槌を跳ね返すほど硬いレンガですが、
イギリスから取り寄せたものだそうです。
さて、この田中隆邸の表玄関です。
大手門として、巨石が2つ並んでいます。
左右に濠をしつられた石垣が、広大な敷地を
ぐるりと囲んでいます。
門から玄関まで150メートル。
緩やかな坂道が続き、その両脇は樹木のトンネル
となっています。
西洋館の建設着手から7年後にできたのが、日本
家屋。その姿が見えてきました。
これが「長府苑」の玄関です。
日本家屋と西洋館および周辺土地44,210坪を
昭和18年に西日本重工業(現三菱重工業)
株式会社下関造船所が取得しました。
この日本家屋が「長府苑」と命名され、以後
迎賓館として利用されてきたのです。
昭和57〜58年頃、屋根葺き替えや大広間の改装
など大幅に改修されたようですが、全体的には
当時の趣が残っているようです。
そして、令和5年(2023)に下関市が三菱重
工業から長府苑を取得しました。
現在、市の史跡となったわけです。
玄関を上がりますと、洋間の応接室があります。
客室(和室8帖×2室、和室6帖)
大広間(和室10帖、和室7.5帖)
管理人室、厨房、トイレ、洗面所、浴室、渡り廊下など
こちらは大広間
大広間から見えるお庭も広大で素晴らしいです。
2026年度は、このお庭をメインに改修工事に
入るそうです。
市民が誇れる史跡の長府苑。
綺麗に整備されてお披露目される日が楽しみ
です。
そして、田中隆という豪商が下関にいたことも
忘れずにいたいものです。
孫文が贈った蓮の実は、その後発芽したものが
成長して毎年「長府庭園」で孫文蓮として私た
ちの目を楽しませてくれています。
庭園が整備されると、ここでも孫文蓮が見られ
るかもしれませんね。
場所:下関市長府黒門東町4−45
*この一角は長府毛利藩の家老が住んだ地域。
黒門の地名は第14代仲哀天皇が過ごされた豊浦
の宮の黒門の御門を意味します。














