京都の老舗旅館「柊屋

~学生時代の思い出とともに~

 

 

 作家の三島由紀夫が、民兵組織「楯の会」の隊員4人とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁し、バルコニーで自衛隊員に向かってクーデターを促す演説をした後、割腹自殺したのは1970(昭和45)年11月25日。1950年10月生まれの私は、20歳になったばかりの大学生でした。

 

バルコニーで演説(1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて)Wikipediaより

 

 

 それまでに、三島の作品は数多く読んで“好きな作家”の一人でしたが、この衝撃的な事件をきっかけに、「なぜ、こんな事件を起こすに至ったのか」「なぜ、45歳という若さで自決という死を選ぶに至ったのか」という疑問とともに、より深く「三島由紀夫」という作家を知りたくなり、未読の作品も読み漁るようになりました。

 

三島6歳。初等科入学の頃(1931年4月)Wikipediaより
 

 

 そんな時、三島や川端康成らが京都の老舗旅館「柊家(ひいらぎや)」に宿泊して執筆活動をしていたことを知り、この旅館に興味を持ちました。そして、 二人が泊まっていた部屋を一目見てみたいという気持ちになり、アルバイトをして宿泊費を稼ぎ出し、夏休みなどを利用して何度か訪問しました。「柊家」が身近になりました。

 

 

 

 

 新聞社に就職してからも度々、「柊家」さんから宿泊へのお誘いの手紙をいただきましたが、忙しさのあまり疎遠になってしまいました。そんな中、2000(平成12)年9月15日に、「柊家」で60年間にわたって仲居を務められた当時91歳の田口八重(たぐち・やえ、本名・やな)さんが栄光出版社から「おこしやす」というエッセイを上梓されました。

 

 

田口八重さん

 

 第一章 京都の老舗旅館で学んだこと/第二章 忘れえぬお客様の面影/第三章 語り残し、思い残して…今―の三章に渡って書き進め、田口さんは「あとがき」で「柊家は私の教室でした。お客さまという先生に、人生というものを教えていただいたのです。おかげさまで、九十余年の人生が、とても豊かなものになったのです」と記しています。

 

  1909(明治42)年、岐阜県中津川に生まれ、1937(昭和12)年に28歳で「柊家」に仲居として勤め始め、以後、取締役、仲居頭、女将代理などを歴任されました。2009(平成21)年2月24日、老衰のため京都市山梨区の病院で亡くなりました。99歳でした。この間、1961(昭和36)年に運輸大臣賞、1969(昭和44)年には接客業に携わる方としては初めて黄綬褒章を受章されました。

 

大女将の西村時枝さんと 6代目の女将・西村明美さん

BEST TIMESより

 

 田口さんの「おこしやす」は、女優の森光子さんが朗読されたCD2枚組の「おこしやす」にも収められています。「おこしやす」は2002(平成14)年4月8日、新年度からスタートしたNHKラジオ第一放送の「私の本棚」で森さんの朗読で放送され、大反響を呼んだためシリーズを朗読「おこしやす」としてCD化したものです。

 

 

 

<「柊家」メモ>

 

 ■所在地 京都市中京区麩屋町姉小路上ル中白山町

 

 ■先 祖 幕末の1818(文政元)年、福井から京に上った初代庄五郎がこの地

     に居を構え、海産物商&運送業を営んだのが始まり

 

 ■名由来 先祖が帰依していた下賀茂神社の境内にある比良木神社に邪気を

      祓う柊の木が自生していたことにより、屋号を「柊家」とした

 

 ■心構え 「来者如帰(らいしゃにょき)」。我が家に帰ってきたように、く

      つろいでいただきたいという心を守り続けている

 

 ■理 念 “三方よし”が基本。お客様、業者様、世間、従業員たち皆が喜ん

      でくれることが経営理念

 

 ■建 物 木造2階建て数寄屋造りの本館21室と2006年2月に完成した新館7

      室の和室風旅館。政府登録国際観光旅館 

  

 ■愛好客 川端康成、三島由紀夫、アラン・ドロン、チャップリンら…

 

 ■京都の三大老舗旅館 格があってもかくばらず、家族のようなほっこり感

      を大事にしている「柊家」/スチープ・ジョブズら外国人顧客が6割以上

      の「俵屋」/お茶人に好まれ、毎月定例のお茶会がある「炭屋」