最愛の妻を亡くした中村雅俊さん
~少年期から五十嵐淳子さんに出会った頃まで~
中村雅俊さんは1951年2月1日、宮城県牡鹿郡女川町の出身。当時は人口1万人ほどの漁師町で、カツオやサンマ漁の船が港に並び、捕鯨船が曳航したグジラを加工する捕鯨基地もありました。祖父はカツオ船の漁師、父親はカツオ節職人、母親は漁師町で酒場を経営していました。酒場は町に百数十軒はあったと言います。母の店では学校の先生もお客さんで、酔っぱらって忘れて行ったかばんを翌日、雅俊さんが職員室に届けたことも。兄弟は2人の姉(長男は雅俊さんが生まれる前に5歳で死去)。
女川第一中学、石巻高校ではバスケットボール部に所属し、キャプテンを務めていたという典型的な体育会系の学校生活を送りました。一方で、1967年に五木寛之さんが書いた「青年は荒野をめざす」を読んでソ連にかかわる外交官の仕事をしたいと思い東京外国語大学への進学を希望しますが、東北大学に進み宮城県庁職員になることを希望する母親と対立。結局、東京外大は不合格になり、上京して駿台予備校に通いながら一浪して、慶應義塾大学経済学部に入学しました。
雅俊さんが慶応大学を選んだのは、中学、高校の頃からとにかく早くこの田舎を脱出して東京の大学に行きたかったのと、スマートなイメージに憧れてのことでした。競争力20倍以上の高い倍率をクリアして入学。当時は有名大学に合格すると、地元紙に名前が掲載されていました。東京に行くのを反対していた母親もそれを見て喜んで、店のお客さんに自慢していたといいます。慶応に合格した日の夜、母親は鶏肉入りの人生で一番豪勢な「くずかけ」を作ってくれたと言います。
大学では同じクラスに外交官志望の友人がいて、外交官に必要なのは語学力ということで、彼に誘われて英語サークル・英語會(K.E.S.S)に入りました。そのサークルにはディベート、スピーチ、ディスカッション、ドラマという4つのセクションがあり、雅俊さんは一番おもしろそうだと思ったドラマを選びました。そのうち英語よりドラマ作りに夢中になり、3年生になってサークルの友人と一緒に日本語の芝居をやろうということで意気投合。日本を代表する劇団「文学座」を受けることになりました。
定員30人のところに応募者が1400人以上。慶応義塾入試の倍率のさらに倍でしたが、1次、2次と合格し1973年に文学座附属演劇研究所に入所した後、文学座に入団しました。それから1年は文学座の稽古とアルバイトに明け暮れる日々でした。事務作業から道路工事、ビアガーデン、中華料理店の出前など…。 そして、卒業間際になってオーディションに合格して日本テレビ系のドラマ「われら青春」での主役が決まりました。撮影が卒業直前の1974年1月にスタートしました。
雅俊さんは卒業試験が受けられず中退することも覚悟していましたが、ドラマのプロデューサーだった岡田晋吉さんが慶應義塾の先輩で、「ちゃんと試験を受けて卒業しなさい」と助言し、卒業試験期間中は撮影スケジュールを空けてくれて無事卒業することが出来ました。「われら青春」の第1回が放送されたのは卒業直後の4月7日でした。ドラマの挿入歌として歌った「ふれあい」(作詞・山川啓介、作曲・いずみたく)も100万枚を超える大ヒット。貧乏大学生が一躍青春スターになった瞬間でした。
雅俊さんは中学生の頃からビートルズやグループサウンズなどに夢中で、大学時代はギターで100曲以上のオリジナル曲を作っていましたが、歌手志望ではありませんでした。当時は「青春」シリーズのドラマでは主演俳優が主題歌や挿入歌を歌うのが“決まり”になっていて、いきなり歌手にもなった訳ですが、のちに「コンサートはお客さまに喜んでもらって初めて成立するエンターテインメント。つまらないステージを見せてしまうと次は来てくれないシビアな世界」だと思い知ったと言います。
ともあれ、1974年に映画「ふれあい」で映画デビューするなど、テレビドラマや映画、ミュージカル、CMなどのほか、歌手としても活動を続け、1977年にはドラマ「俺たちの勲章」と映画「凍河」で共演した五十嵐淳子さんと結婚(2月1日)し、同年7月に長男の俊太さんが誕生しました。結婚について、雅俊さんは「デビューして間もなかったから、マネジャーや母親などに猛反対されました。1万人いたファンクラブ会員も1800人まで減りました」と語っています。
akiraの独り言
実は、私は1950年10月17日生まれで、1951年2月1日生まれ(早生まれ)の中村雅俊さんとは同学年。私も一浪して1970年4月1日に慶應義塾大学経済学部に入学、1974年3月31日に卒業して産経新聞社に入社しました。取材される側とする側という言い方も出来るかと思います。
学生時代は雅俊さんは隣のクラスでしたので、何回かお見受けしたことはあります。ゲタを履いて学校に来ていたこともありました。文学座のころだったのでしょうか。小田急成城学園前で撮影中の雅俊さんをお見かけしたこともありました。

学生時代も新聞社に入ってからも、直接お会いして話をしたことはありませんが、雅俊さんは慶應義塾時代から勉学とともに芸能活動も始めていましたので注目し、4年間にわたって“同じ学び舎”を共にしたということで、その後もずっと気になる存在でした。
1974年に慶応義塾大学経済学部を卒業した“同期”の人たちは「俺、雅俊と同級生なんだ」と自慢げに話し、それ前後の塾生は「俺は雅俊の1年先輩」「私は雅俊さんの1年後輩」などと飲み屋で語っているのを何回も耳にしてきました。雅俊さんという方はそんな存在でした。
このたび、金婚式間近かまで49年間連れ添った奥様の五十嵐淳子さん(享年73)の突然の訃報に接し、月並みな物言いしか出来ませんが、同期の無一人として、「気を強く持って、あらゆるジャンルで頑張ってください」とあえて申し上げたいと思います。









